それはきっと「さようなら」。



 ストーブの熱気が私の肌を焦がしかけていたのを、よく覚えている。



 寒い寒い冬だった。
 例年の如くぼたぼたと降る雪の所為で、部屋の中は耳たぶが痛くなるほど冷え切っている。

 家族全員が揃った日曜日。
 夜の間にしんしんと降り積もって車まで埋めてしまった雪は、私の家を含め町の誰もを外出させまいとしていた。

 ストーブをいくつも焚いてこたつを出している部屋で、兄と父がテレビを見て、弟がこたつで寝ている。
 その部屋のホットカーペットの上で寝転がっていた私は、先刻母によって呼び出され、この凍った部屋にいる。

 ここは父の部屋でもあり、子供部屋でもあった。
 私も兄もまだ小学生で、自分の部屋を持っていてもあまり使う事が無いので、この部屋に兄と私の勉強机を並べて共同部屋にした上、父が寝室として使っていた(弟は赤ん坊なので論外だ)。
 父以外が使うとしたら、暇があれば私が勉強机に向かって多少の絵を書くことがあるだけで。

 母が部屋のストーブをつけた。
 私は寒いのでその真ん前に座って、母は私の隣に座った。

「由里、聞いて」
 小学生の私に、母は酷く真剣な声で言った。
 私は、そういえばここに私だけを連れてこられた理由を全く知らされていない事に気が付いて、その理由を聞かされるのかと母の顔を見た。

 まだ、ストーブは小さく熱気を吹き出し始めたばかり。
 コートを羽織ってくれば良かったと少し後悔するほどの寒さ。


「お父さんとお母さん、離婚するから」


 ……しんしんと降る雪の所為で、鼓膜が内側にへこみそうな程、静けさが広がっていた。
 その中で母の言葉は、あまりにはっきりと聞こえすぎていた。

 私はドラマでよく聞くような『離婚』という単語に、奇妙な非現実感を感じた。
 何かの物語を聞いているようだ。

「お父さん、他に好きな人が出来たんだって」
 視線を外して言われたその言葉は、どうも嘘くさかった。

 ――否、最近両親が不仲なのは何となく気付いていたのだ。
 襖越しに小さく言い争う言葉がたまに聞こえたり、二人の視線の遣り取りが噛み合っていなかったり。
 それはもう、私が小学生だからと言って分からないわけではなかった。

 しかし母が告げたこの『離婚』の理由については、何となく、嘘だなと思えた。
 父は表面上のふざけ具合に関わらず硬派だ。浮気はどう考えてもあり得ないのだ。

 あり得ないと思いつつ、それを指摘することはしない。
 私は今、『離婚』という単語が現実に私の身に関わっているのだと認識するのに手一杯だった。

 不思議と、悲しくはない。
 あまりに現実味がないからか。それとも以前からこの事態を予期していたからか。
 ……両方だ。

 ストーブが熱気を吐き出して、それは真ん前にいる私の両脚に全て降り注いだ。暖かい。

「お兄ちゃんも哲也もこの話分からないでしょ。だからまず由里に話そうって思って…」
「……」

 弟・哲也は一歳児。兄は軽度の知的障害者。事実上精神的に一番年上なのは私だ。
 母がその事を言っているのはすぐに分かった。
 しかしそれより気になったのは、母の声が徐々に鼻声になってきていることだった。

 不思議だった。
 私はまるで悲しくないのに、母はあらゆる苦しみを背負い込んで深い海底に沈もうとしているようだった。
 いつも気丈な母がそんな風になっているのを見て、私はそちらの方が苦しかった。
 私はようやく事の重大さに気付いたのだ。

 ストーブの熱風を徐々に熱く感じ始めたが、私は一ミリも動けずにいた。

「ごめんね……由里もまだ五年生なのに……、こんな、重い事…」
 話しながらすすり泣き始める母を見ながら私はたった今、何かが壊れたんだ、と得体の知れない納得をした。

 ぽつ、ぽつ、と私の涙が頬を伝って床に落ちた。
 離婚が悲しいのではない。何かが『壊れてしまった』事に、どうしようもない喪失感を覚えていたのだ。

 言葉も無く、ただしばらく二人で泣いて、時々母が私の頭をなでて、泣いて、泣いて、泣いた。
 ストーブのすぐ近くに座ったまま動けないでいた私は、ストーブの熱風で脚が焦げそうなほど熱くなっていた。



 ***



 兄も弟も私も母についていく事になり、結果、父だけをこの地に残して新学期から私達は母方の祖父母の元へ引っ越す事になった。
 私は小学校を転校する事になる。
 三学期の終わりも近くなった今、転向する事が決まっている私は、それまで通っていた小学校へ行く回数が残り僅かとなっていた。

 そんな中、私は担任から「クラスで『お別れパーティー』をしよう」と持ちかけられた。
 私に司会をやって欲しい、とのこと。なるほど世話好きな彼らしい提案だ。
 私はこの小学校が好きで、クラスの皆も好きだった。
 だから、その時先生に言った。

「先生、『お別れ』じゃなくて『またね』がいいよ」

 別れを惜しむ会、ではなく再会を願う会。
 また会えるだろうという、それは希望の形だった。

 …希望。………希望?
 しかし私は、心の中で疑問を抱いた。
 何に対しての疑問なのか、分からない。
 しかし私は「そうだね、じゃあ『またねパーティー』にしよう」と笑顔で言う先生に気を取られて、結局疑問に対しての答えを正確に出さないまま捨て置いた。


 数日後、午後の授業を全て潰して、クラスの中で盛大なパーティーをした。



 ***



 ダンボールの波に飲まれそうになる日々をやっと終え、私と兄と弟、それから母は手荷物をまとめた。

 電車の駅へ向かう。
 車は父が運転していた。

 全員が無言だった。
 まるで私が母に離婚を告げられたあの時のように、静かだった。

 車の外に流れる景色はいつもと何ら変わりない町の風景で、まるでこれから小旅行へ行くだけのような感覚だった。
 ただ、父と母が赤の他人のようになっているだけで。(実際、血が繋がっているのはこの中で親と私達だけで、父と母は元から他人同士だけれど)

 駅に着いて、私と兄はリュックを、母は自分の旅行鞄と弟を両手に抱えた。
 父が何か持とうかと母に言うが、母はそれを断った。

 駅に入ると、親しい友達が何人か私を出迎えた。
 近所の、母とよく話をしていたおばさんも居る。

 私は友達から手作りのお守りや手紙を貰ったので、それらをリュックに詰めた。
 …どの顔も、これで会えなくなるとは思えない。実感が湧かない。
 私は遠く離れた場所へ行くというのに、この友達と二度と会えなくなるという感覚が無かった。
 だから、友達のように深刻な顔で別れを告げる事ができなかった。

 父が後ろを付いて歩いて、その更に後ろに私の友達や母の知り合いがついてくる。
 プラットホームに全員一緒に入ると、小さな駅が俄かに活気づいたようだった。

 母が、予め買っておいた切符を人数分あるかどうか数える。
 それから幾分もしない内に、線路の左の方に電車が見えた。
 徐々に速度を緩めて、私達の前で僅かな風を巻き起こして止まる。
 プシュ、と音がして扉が開いた。

 見送りに来た皆が、「また会おうね」「いつでも来てね」「向こうに着いたら連絡して」と口々に別れの言葉を告げる。
 私は別れの実感が湧かない所為で、そのどれもが悲しく聞こえなかった。
 とりあえず皆が悲しんでいるので、「うん、ありがとう」と返事をした。

 電車に乗ろうとして、私はふと背後の違和感に気付く。
 振り返ると、父が後ろから私のリュックに何かを詰めている所だった。

「向こうに着いたら、読みなさい」
 …読みなさい、という事は手紙なのだろうか。
 私は小さく頷いて、電車に乗った。小さな電車だった。
 これで都会まで行って、新幹線に乗り換えるのだ。
 目的地は遠い遠い地。半日はかかってしまう。

 停車時間は短かった。
 私や兄、弟、母を乗せたこの電車は、すぐに扉を閉めた。

 私達は窓を開けて、手を振った。
 母は、少し手を振っただけですぐ席へ座り直した。
 …見ると、泣いていた。

 兄は席でぼんやりしていて、弟は母の腕の中で時々唸り声を上げている。
 私は…また悲しくもないのに、涙を少しずつ零していた。
 最近自分の感情がよく分からなくなっている。
 私はどうしてしまったのだろうか。前と同じように、母の涙につられたのだろうか。

 いよいよ電車が発車して、徐々に景色がずれてゆく。
 もう、駅に居る人達への言葉も届くかどうか分からない。
 僅かに焦りながら、色々考えた挙句私は窓の外へ最後に、


「バイバイ!」


 確かにそう、叫んだ。

 皆の姿が見えなくなるまで窓の内側から手を振り、やがて見知らぬ景色が見える頃にようやく窓を閉めて席にきちんと座った。まだ涙が流れていた。
 私は涙のせいでぼんやりする頭を少しだけ傾げて、母の肩に置いた。
 母からそっとハンカチを渡されて、同じくらいそっと受け取る。
 涙を拭きながら、心の中で自分の言葉を反芻した。

 バイバイ。バイバイ。…バイバイ。……それはどう考えても別れの言葉だ。
 電車の吊り革をじっと見ながら、ぼんやりする。
 そして…あぁ、とようやく理解した。

 私は、初めから別れを理解して、実感して、痛感していたのだ。
 悲しさに、何とはなしに蓋をして、ぼうっと見送る事を無意識に決めていたのだ。
 それは私が一番傷つかない方法だから。

 母が離婚を告げた時も。
 お別れパーティーを『またねパーティー』に変えた時も。友人が別れを告げた時も。
 ……全て、もうあの土地の人達に会えなくなるとはっきり分かっていたのだ。

 『またねパーティー』にしたいと言ったあの時、それはまた会えるだろうという希望を込めたものだと思っていた。
 ……実際はそう思い込みたいだけだったのだ。


 窓の外に大きなショッピングモールや海、時にトンネルが過ぎていって、それを見る私達は、周囲から見て少し目立つくらい涙の気配を漂わせていた。

 本当は、母から離婚という言葉を聞いた瞬間から、『別れ』を知らない振りをして通り過ぎようとしていた。
 もう二度と会えないと確信するわけではないけれど(だって半日かければ会える可能性だってあるのだから)、

 あぁ、もう、だから。


 私が心の中でずっと思っていたのは、皆に対して思っていたのは、
 それはきっと「さようなら」。





 目的地に到着しない内に開封した父からの手紙には、精一杯の「ごめんなさい」と「さようなら」が書いてありました。





――終――




<アトガキ。>

えー、これは小説表現の授業に最後に出した物です。
お題は『グッドバイ』。
先生が「純文学を書け」とうるさいので、最後の最後だけファンタジーを諦めてみた感じ。

…実は私の学年になるともう授業が殆ど無いので、このお題の小説は提出しなくてもよかったんですが(下級生は提出しなきゃならないけども)、何となくネタが上がったので書いてみました。

結果は…満点でした!やった!!
「今年度の授業で最高の文章です」と太鼓判を押してもらいました。
いつもは辛口評価のくせにどうしたんだ先生。
…もしかして卒業記念か?そうだったら嬉しくないな……;
母は「絶対に卒業プレゼントだよ」と言っております。…あぁ、そうなのかもしれない…(ううぅ)

…ちなみにこの小説読んで「あれ?」と何度か思ったオフ友さんよ。
違うから。(何が?)

てなわけで、授業提出物もこれが最後。
長かったような短かったような……とりあえず楽しかったです。
またオリジナルを書く機会があれば書きますよ。
では。

2007.1.30