Empty Doll



 ただ、視界を埋めてゆく。

 その紅の炎の中には。

 あの少女が―――映った気がして。

 そっとそっと、震えるその両手を伸ばした。


  ***


 ある時代、ある場所。
 ある男が、一体の生きた人形を作った。

 その人形の姿形は、人間の男の子そのものだった。
 男は人形に『エンプティ』と名付け、自分を護らせた。

 男はその近辺で有名な金持ちで、金目当てに命を狙われることも多くあったのだ。
 少年の姿をした人形ならば警戒されずに相手へと近付く事が出来、そして容易く相手を撃退できるだろうと、エンプティは少年の姿で作られた。

 エンプティの仕事は、己を造った主を護ることで、普段は家事をこなしている。
 エンプティの主は変わり者で、メイド等は全く雇わなかった。
 唯一側に置いていたのが人形の少年・エンプティだ。

 エンプティは今、月光に照らされた大きな庭を走っている。
 屋敷に入り込んだ「何者か」を排除する為に。




 数分足らずが経過して。
 庭の隅には、銃を持った男三人が倒れていた。

 此処に倒れる前に、「金が欲しかっただけなんだ」とか「来るな」とか、「死にたくない」、とか。
 聞こえた気もするけれど。
 エンプティには全てどうでもいいことだったし、男たちの表情の理由もよく解らなかったので。

 三度。その細い腕に仕込まれた銃を発砲させて。
 男たちは、動かなくなった。

 積み重なった男たちに、エンプティは。
 静かにただ、無感情な視線を向けていた。




 翌日。
 エンプティはいつも通り家事をしていた。

 洗濯物を干して、掃除をして、主へコーヒーを入れて持っていき。
 昼。昼食を作り、決してダイニングへ向かわない主の元へ運ぶ。
 エンプティは人形だ。疲労などは感じない。

 休むこともなく働いたので、暇ができた。
 することのないエンプティは、庭へ行った。

 今日の朝片付けたその場所には、まだ男たちの赤黒い血がこびり付いていた。
 何を思うでもなく何をするでもなく、エンプティはそこに立ってそれを見ていた。
 すると。

『ガサリ』

 少し背の高い植木の密集するそこから、葉擦れの音が聞こえた。
 明らかに、人為的だ。
 …侵入者か。

 エンプティは目を細め、警戒をしながら、音のする方へと近付いていった。

『ガサッ』
 再び植え木の葉が動き、

『ザッ!』
「ぷはっ」

 座っていたか、またはしゃがんでいたその状態から立ち上がったのだろう、その人間は勢い良く立ち上がった。

 エンプティは瞬間、撃とうとして、
―――動きを、止めた。

「んー、やっぱ無いかぁ」

 少女だった。
 長い金髪を頭の上の方に束ね、動きやすそうな格好をしている。

「あっ、このお屋敷の人?御免なさい、勝手に入って」
 少女はあまり悪びれた様子もなくそう言うと、エンプティを見て少し笑んだ。そして周囲をきょろきょろと見回しはじめる。

 エンプティは、自分より背の低い人間を見たことが無かった。
 ここへ入る人間は大人ばかりで、見るのも大人ばかり。
 相手をどう認識すればいいのか、エンプティは迷っていた。

 悪意の無い者など久しいものだが、そうであるなら銃の形へ変形させた自分の腕を元に戻さなければならない。
 ……悪意がないという確信は、まだない。

「何をしている」

 エンプティが訊ねると、少女はまだせわしなく周りに視線を配らせたまま「んー?」と生返事をし、こう言った。

「探し物をしているの。友達とふざけながらボールを蹴りあっていたらこんな所まで来ちゃったのよ。おまけにここにボールが入り込む始末。それでボール探してるの」
 友達はこの屋敷の中にボールが入ったって分かった瞬間全員逃げ出しちゃったけど、と付け足し、少女は大袈裟に溜息をついた。

 エンプティはその話に裏が無さそうなのを見、腕を元の形へと戻す。
 しかしロックはかけない。
 完全に安全とは言い切れない。

 少女は、エンプティの腕の変化に気付かない程ボール探しに意識を向けている。
 そんなに大切なものだというのだろうか。

 しかし、あまり長い時間いられると、主が気付いてこちらに来てしまう可能性が高い。
 とどめている理由を聞かれ始めると厄介なのを、エンプティは知っていた。

 が、少女がボール探しを諦める様子もない。
 仕方なく、エンプティはボール探しを手伝うことにした。

「どの方向だ?」
「え?」
「どの方向にボールが飛んだ?」
「手伝ってくれるの?」
「……」

 エンプティが無言で頷くと、少女は「ありがとう」とまた微笑んだ。
 微笑みを見慣れないエンプティには、その表情の意味が分からなかった。
 それでも、エンプティは少なからずその表情に興味を持った。

「そっちの、木が沢山生えてる所だと思ったんだけど」
 少女が指で示した先には、先刻少女がいた植え木。
 エンプティはすたすたと植え木へと歩いて行き、短ズボンの足で躊躇いなくザカザカと音を立てて入っていく。

「い、痛くないの?」
「……」

 少女を一瞥し、エンプティは何も返さずボール探しに入った。
 エンプティは人形なので、『痛い』が何なのか分からなかった。

 少女は数秒間そんなエンプティを眺めて、首を傾げてから自分もボールを探し始める。
 脚を枝で傷つけないように、注意しながら低い植え木達の中へ踏み入れて。




「み……見付けたっ」
 約十分後。少女が声を上げた。
 実際見付けたのは、エンプティだったが。

「どこにあったの?」
 少女が訊ねるとエンプティは、低い植え木の方ではなく、その奥にまばらに植えてある大きな木の上の方を指差した。

「上…だったのね…。下だとばかり思っていたから気付かなかったわ」
 苦笑しながら、エンプティから両手でボールを受け取る。
 そのボールは、空を少し濃くしたような青で、小さく翼のイラストが入っていた。

「探してくれてありがとう。あなた、この屋敷の子?」
 聞かれて、エンプティは首を傾げる。

 子、と言われても自分は人形であり、生きたものではない。
 だが子供の姿をしているのは確かなので、エンプティは一度大きく頷く。

「そうなんだ…。ねぇねぇ、この屋敷に来る人全員が実験に使われて殺されてるって本当?」
 全く悪びれず、ただ好奇心のみで言っているのだろう少女は、エンプティの言葉を待つ。

 主が実験好きで、それ故自分が生まれたということは知っているが、
「……違う」

 殺しているのは、自分だ。

「違うんだ。じゃ、やっぱりただの噂だったんだね」
 少女は素直に納得して、意味もなくうんうんと頷く。
 皆に報告しなきゃ、とも言っている。

「あ、ねぇ。あなたの名前は?私はフィル」
「……エンプティ」
「エンプティね」
 フィルと名乗ったその少女は、エンプティの名を嬉しそうに繰り返した。

「ねぇ、エンプティ。今から私と公園で遊ばない?友達も誘うから」
「駄目だ」
 即答したエンプティに、フィルは眉を寄せる。

「何か用事があるの?」
「…仕事」
 家事のこともそうだが、自分が離れている間に何者かがこの屋敷に入り込んでしまうかもしれない。

「仕事?」
 じっと目を見ながら言われたが、エンプティは戸惑うこともせず黙った。
 言う必要は、無い。

「ちょっとくらい、いいじゃない」
 フィルの言葉に、エンプティは首を横に振る。

 主を護れないのならば、己が存在する意味は無い。
 その為だけに、作られたのだから。

「遊ばないと気が滅入るわよ?」
 再度、エンプティは首を横に振った。
 滅入る、という感覚も理解できなかった。

「もしかして、今までもそうやって断ってきた?」
「……」

 断った、というよりこんなことを言われた事が無い。
 黙っていると、フィルは肯定と受け取ったのか、
「駄目じゃない!遊ぶ時は遊ぶの。今日が駄目なら明日は?」
「…」

 フィルは、まるで弟を叱るような口振りで続け様に訊いてくる。
 明後日は、明々後日は、その次はと尋ねるフィルに、エンプティが首を縦に振る事は一度もなかった。
 そして遂に、フィルが怒り始めた。

「もう!何でなのよ。そんなんじゃ友達なくすわよ!」
 別に怒られる筋合いも無くす友人も有りはしないエンプティは、ただ押し黙るのみ。

 フィルは怒り口調のままでびしっ、と人差し指をエンプティに向けて突き付け、声高らかに宣言をする。

「私、あなたが遊ぶって言うまで毎日ここに来るから!」

 興奮しながら言うフィルに、エンプティはさすがに眉を寄せた。
 此処に来られては、面倒なことになりかねない。

 主のことや、それこそフィルの性格故の事まで色々な意味を含めて。 断ろうとエンプティが口を開きかけたが、フィルがそれより前に言った。

「じゃ、今日はこれで帰らせて貰うわ。あまり帰ってこないと皆心配するし」
 じゃあね、とボールを抱えたフィルが、住人の自分や主でさえ今は使っていない裏口へ向かっていく。来た時もそこから入ったのだろう。

 一応油はさしてあったので軋みはしない黒い柵を押し開き、フィルはその場からいなくなった。

 エンプティは、それを見届けてから屋敷を見上げる。
 どうやら主は気付かなかったらしい。

 あれだけ騒げば気付いてここまでやってくるだろうと思っていたのだが、そうでもなかった。
 屋敷は広いし、それも不思議ではない。

 しかし問題は、これから毎日来ると言ったフィルの事。
 追い返すのにも手間が掛かりそうだ。
 エンプティは悩むでもなく、ただどう対処すべきかを考えていた。




 翌日も、その翌日も、宣言通りフィルはやってきた。
 それは決まって初めて会った時と同じ昼下がりで、フィルは翼のイラストが入った青いボールを持っていた。

 来てから数分は遊びに誘う為に必死になってるフィルだが、数分経てば、諦めたようにその場へ座る。

 エンプティを隣に座らせ、色々な話を話してきた。
 自分のこと、友達のこと、父母が営むパン屋のこと。
 将来パン屋を受け継いで立派にパンを売ってみせる、とか。そんな、他愛のない話。
 エンプティは相槌を打つことしかしなかったのに、フィルはそれでも構わず楽しそうに話した。

 そんな、主に悟られないよう注意を払って会う日が続いた。
 エンプティが遊びに出る事はなかったが、だからこそ二人は毎日会っていた。

 日が経つにつれてエンプティは、フィルの話を聞く時間が待遠しくなっていった。

 フィルと居れば、屋敷の中の重苦しい空気が吹き飛ぶ。
 フィルと居れば、足りない何かが埋められていく気がする。
 フィルと居れば、笑顔が見られる。

 『楽しい』を知らないエンプティは、名も知らないその感情に心地良さを感じていた。


 そんな日が、十日ほど過ぎたある日。

 フィルは、いつもの時間、いつもの翼のイラストが付いた青いボールを持って、いつもの場所へ来た。
 が、いつもの笑顔は無かった。

 エンプティは理由を尋ねようとしたが、普段殆ど話さない彼には言葉がうまく思い浮かばなかった。
 するとフィルはそんなエンプティに気付いたように、俯けていた顔を少しだけ上げてこう言った。

「私のお母さんが、馬車に跳ねられて死んでしまったの」

 小さな、小さな声。普段の彼女からは想像が付かないくらい。

 隣に座っているエンプティは、その時初めて『涙』を見た。
 再び俯いたフィルの両の瞳から溢れる透明な滴を、エンプティは不思議そうに見詰めた。

 その時エンプティが、その滴が何なのかを聞かなかったのは、フィルが何かに耐えるように唇を強く強く噛んでいたからだ。

 エンプティは、どうすればいいのか分からなかった。
 どうすればフィルがまた笑ってくれるのか。

 思惑と動きが一致せずに、おろおろとする。

「フィル……」
 動揺したまま名を呼べば、フィルは驚いたように目を見開いて顔を上げた。

「…エンプティ、今初めて私の名前呼んだ………」
「え、」
 言われて気付く。
 名を、知っていたのに呼んでいなかった事実。

「ありがとう」
 やはりいつも通りではないが、それでも緩やかに笑んだフィル。
 エンプティはほっと息をついた。

「ごめんね、突然泣いちゃって」
 少し掠れた声のフィルは、エンプティにはなぜかいつもよりとても小さく見えた。

 放っておけばこのまま消えてしまいそうで、エンプティは存在を確かめるようにフィルの肩を右腕で抱き寄せた。
 フィルは、エンプティの顔を間近から見上げて数度まばたきをした。
 涙は止まっていた。

 目に残っていた涙をごしごしと拭い、フィルは目を細める。
「…いつまでも泣いてたら駄目だよね」

 まだ少し震える声。
 エンプティが、心配そうにフィルの顔を覗き込む。
「大丈夫……。悲しいけど、お母さんはずっと私の記憶の中に…心に、生きてるから。」

 大丈夫、大丈夫。
 そう言ったフィルは。
 また泣きだしてしまいそうで、震えていて。
 けれど。

―――その目は確かに、前を見据えていたから。

 エンプティは、フィルの肩を抱く力を少しだけ強めた。
 そして、ふと気付く。


 人の死。
 自分には見慣れていたもの。

 自分が殺した者達に縁のある人間の、その内の誰かは、こんな風に泣き、震えていたのだろうか。
 死んだ事は知られていないだろうが、帰ってこないことに不安を覚えているのではないだろうか。

 だとしたら自分は何という事をしてきたのだろう。
 エンプティは、知らず奥歯を噛み締めていた。


「どうしたの?」
 フィルが首を傾げ、エンプティは首を横に振った。

 エンプティのその動作から『何でもない』の意味を汲み取ることができても、『途方も無い罪悪感』は、何も知らない彼女には知りえなかった。

 人形には見えないエンプティのその顔が、初めて苦痛に歪んだ。




 その日の夕方。
 エンプティは夕食の食器を下げに、主の部屋へと入った。

 木製の盆ごと机の端にあるそれを持ち上げようとして、考える。

 主は、机に向かっている。
 何かのデータを書き留めているようだ。

 エンプティは、数秒躊躇ってから、意を決したように口を開く。

「……マスター」
 主を呼んだ。
 本名は、教えて貰っていない。

 エンプティの少ない知識は、この主から全て教わった。…今は、フィルから教わったものの方が多いが。

「何だ、エンプティ」

 主の、低い声。
 生まれてからずっと聞き続けているはずなのに、どうしてもフィルのように聞き続けることができない。

 ……全てを統べるかのような、威圧感を持ち合わせた主。
 エンプティの生みの親であり、名付け親であり、絶対的な存在だ。

「……もう誰も、殺したくない」
「…どういう事だ?」
 何かを書いていたその手を止め、主はゆっくりとエンプティの方へ首だけで振り返る。

 露骨な嫌悪の表情に、エンプティの肩が震える。
 圧倒的な、恐怖。

 左腕で右肩をぎゅっと掴み、震えを無理矢理止めようと懸命に努力をした。

「誰かが死ねば、誰かが悲しむ。だから……殺したくない」
 声すら震えてきそうで、エンプティは頭を左右に振った。

 主は、クク、と喉の奥で笑った。
「捕まえてでもおく気かい?生かしながら閉じこめるなんて、面倒で仕方がない。それともすぐに釈放するかい?また入り込むだろうけど」

「で、も………」
 エンプティは恐怖で混乱しかけて、主から視線を外す。
 が、すぐに主をまっすぐ見据えた。

「それでも、俺は殺したくない」

 言い切って、掴んだ右肩を殊更強く握る。
 主は一瞬だけ眉を寄せ、そして「あぁ…」と呟く。
 ほんの少しの、嘲笑を含めて。

「お前、人形のくせに人間臭いよ。」
 主は、イスから立ち上がってエンプティに近付いた。

「感情を持たず、何も知らない人形だから役に立ってたっていうのに。誰かと接触持ったんだ?失敗失敗」
「マス、ター?」

 エンプティは数歩後ずさる。それに合わせて主も歩を進めた。

「ま、丁度新しいのが欲しいと思ってたからいいけど」
 ふ、と笑って、エンプティの後頭部を探る主。

 カチリという音と共に、エンプティの視界は闇に染まった。
 体中の力が全て抜け、がくりと床に崩れる。
 わずかに残っていた意識は、完全に溶けて消えた。

「要らないものは、さっさと処分するに限るよ。どうせいくらでも作れるんだし」
 にやりと笑んだ主が、エンプティを抱き上げた。




 目を覚ましたエンプティがいたのは、暖炉の中だった。
 炭が残っており、上を見れば煙突が外へ続いている。

 エンプティの体は自由がきかなかった。
 唯一動く首を動かして見てみれば、体は縄で縛られていた。

 横にされている今の態勢では、否、そうでなくても起き上がることは不可能だった。

『シュッ』

 小さな音が聞こえて、視線を送る。

 そこには、マッチをマッチ箱に擦り付ける主の姿。
 揺らめいた火で、仄かに主の顔が橙に染まる。

 これから何をされるのか、エンプティには大体想像がついた。

「エンプティ」
 暖炉の前にしゃがみこむ主。
 エンプティは気怠そうに瞬きをした。

「最期に何か言いたい事はあるか?」
 楽しそうに。本当に、楽しそうに。

 一度オフにしたスイッチを再びオンにして意識を浮上させたのはこういうことだったのかと、エンプティは妙に冷静になる。

「……フィルには、何もしないでほしい」
 せめて、フィルだけは。

「……そ。」
 面白くなさそうに言った主は、数秒してからマッチを暖炉に放り込んだ。
 その火はエンプティの服に燃え移り、やがて炎となる。

「本当、人間臭い。人形は所詮人形でしかないっていうのに」
 吐き捨てて、主は立ち上がる。

 そしてリビングから出、ドアを閉めた。
 恐らく自室へ戻ったのだろう。

「………」
 エンプティは熱さも痛みも感じないまま、そこに横たわっていた。

 主にされた事なら、仕方がないと思っていた。
 生まれてから死ぬまで、その存在は絶対だった。ただそれだけの事。

 所詮自分は人形で、主は人間だ。
 生きていないものを捨てるのは、容易いのだろう。

「フィル…」
 少女の名を呼んで、ゆっくりと目を閉じる。

 たった一つ、気掛かりな事。
 フィルは、自分が居なくなったと知ったら…また、泣くのだろうか?

 彼女には泣いてほしくない。
 笑っていてほしい。

 そこまで考えて、ふ、と笑う。
 あれだけ短期間しか会っていなかったというのに、泣く理由がどこにある?

 自分は家族でもなければ友達でもない。
 たった十日。たったそれだけ。そんな、繋がり。

 炎がエンプティの体を覆う。
 体が、溶ける。


『ずっと私の記憶の中に…心に、生きてるから。』

 フィルの言葉が、鮮明に甦る。
 泣かなくていいから、あまり思い出さなくてもいいから、せめて。
 せめて、自分が存在したことを覚えていてほしい。

 初めて主以外で名を呼んでくれた彼女。
 遊ぼうと誘ってきた彼女。
 落ち着ける場所を、与えてくれたフィル。

 あぁ、伝えたいのに。
 どうにかしてこの感情を伝えたいのに。

 フィルのお陰で、何かを得られた。
 最後まで、それが何なのかは分からないままだったけれど。

 ジュッ、と音がして、皮膚にあたる特殊ビニールが溶ける。
 それが瞼の上を流れて、表面を半分溶かしていった。
 流れることのあり得ない涙が、どろりと流れた。

 フィル。
 フィル。
 ―――フィル。

 おかしいんだ。
 先刻まで、この世界から消えることなんて大したことはないと思っていたのに。

 今はもう一度だけ。
 もう一度でいいから会いたいんだ。

 一緒に遊べばよかった。
 そうすれば、もっと笑ってくれたかもしれないのに。


 パチリ。弾けたような音がして、縄が焼け落ちた。
 が、もう脚が焼き尽くされて動かない。
 あぁ もう、終わる。


 ただ、視界を埋めてゆく。

 その紅の炎の中には。

 あの少女が―――映った気がして。


 そっとそっと、震えるその両手を伸ばした。


 ぼろり、腕から骨組み以外が崩れ落ちる。

 少女に、フィルに、伝えたい言葉があった。
 何か大きなものを与えてくれた、フィルに。

 もう、伝わらないけれど。
 こうなった事に後悔はしていない。

 フィルに会えたからこそ、出せた結果なのだと確信しているから。
 得たものが、大きかったから。

 目が焼かれ、視界が完全に奪われた。

 そして、思い出す。
 この気持ちを伝える言葉。彼女がよく言っていた言葉。
 フィルに今、伝えたいこと。伝えたい気持ち。

 全てを焼き尽くす炎に包まれながら、エンプティは。
 最後、本当に最期に。


「あ、りが、と………」


 たった一言、そう言い残した。





 ある時代、ある場所。
 これは空っぽ――『エンプティ』だった少年が、『フィル』――満たされた、お話。

 ある男の住んでいる屋敷のリビングにある暖炉。
 そこに嫌な臭いと大量の炭が残った、その次の日。

 昼下がり、翼のイラストが入った青いボールを持った少女が、無表情な知らない少年に胸を銃で撃たれて死んだ。
 焼却された少女を置いて、ボールが風で少しだけ転がる。


 ぽつり、ぽつり。
 まるで誰かが零した涙のような雨が、降り始めた。





   ――終――



<アトガキ。>

・・・・・。えぇっと。
暗いにも程があるというか。報われない話です。
普段ギャグやら何やら書いている割に、文芸(部活)になるとこういう話が多くなる私です。
何故なのかは私にもよく分からないのですが…(汗)

エンプティは知っている事と知らない事がまちまちでしたね。
『笑顔』自体は知っていても、その表情の意味を知らなかったりとか。
主…一体歳はいくつだ・・・。

はじめの設定は「老人」だったのですが、あの口調が出たので「男」に改変。(コラ)
二十代かしら…それも微妙…。
でも二十代で動いて喋れて考えられる人形を作れるとは。
「科学者」という設定だったのが効いているのでしょうか。
…締め切りを結構過ぎてしまったので急いで書いていたらそこら辺の設定を入れられなかったのです。
自業自得…(汗)

それにしても部誌(=文芸部で出す雑誌)を発行する前にここに載るとは。

2005.2.8