密偵赤ずきん・後編



 窓のない、薄暗い密室。
 そこは組織の地下室に似ていたが、全く違う場所だった。
 コイフはそこで目を覚まして、ふっと苦笑を洩らした。

 部屋にはコイフ一人。
 腕と脚、手首までもを縛られて、横たえられている。
 アタッシュケースの暗証番号を聞く為に捕らえられてここに放り込まれたという所だろうか、と脳内で簡単に状況を整理してから、コイフはこれからどうすべきかを考えた。

 あの状況から行くと、ここは敵のアジトのど真ん中、もしくは敵の頭がいつでも状況を窺えるどこかだ。
 アタッシュケースを取り戻す事も、捕まえてあるという依頼主を救出する事も、自分一人でこなすには難しい。
 この場所がどこなのか分からないのが最大の難点だ。
 下調べもなく敵の巣窟を歩き回って無事でいられる確率など高が知れている。

 そもそも自分はどのくらいの間気を失っていたのだろうか。
 この部屋には時計などない。
 コイフ自身も時間を確かめられる物を持っていなかったので、仕方なく諦めた。
 依頼遂行時間の限度を過ぎていればここにいる意味はないが、どちらにしたってここから出る方法を考えなければならないのだ。

 強行突破、という手もある。
 しかしそれでは戦闘があまり得意でないコイフは、最後まで無事でいられるか疑問だった。
 ならばどうするか……。

 コイフは縛られたまま芋虫のように蠢いて、とりあえず縄抜けをしてから考えよう、と結論を下した。
 まず、背中で甲同士を合わせて縛られている手をごそごそと動かした。
 縄が手首に食い込むのにも構わず、右手の指で何とか左手の甲の端を探る。
 ……が。

「くそっ、やられたか……」
 コイフが嵌めていた薄い手袋は、外されていた。
 その手袋には甲側の金具に小さなナイフが仕込んであったのだが、敵側はそれを見抜いて外したらしい。
 ……恐らく、イーグルが外したのだろう。
 今まで仕事を共にしてきたイーグルならば、手袋にナイフが仕込まれている事も間違いなく知っている。

 こうなれば手の骨の一つも折って変形させて、無理矢理にでも抜け出してしまいたい所だが、これ以上戦力を落とすわけには行かないし、そもそも立てないので手を叩き付ける事すら出来ない。
 脱出以前に縄抜けの方法を考えあぐねたコイフは、次にイーグルを呪い殺さんばかりに怨んだ。
 イーグルが裏切らなければ、戦闘のあまり得意でないコイフでも依頼をこなせた可能性が高いというのに。

 依頼遂行中に味方が寝返った事は多少経験したが、まさかイーグルに寝返られるとは思わなかった。
 コイフは舌打ちをして、敵がこちらに何かを仕掛けてくる時を待つ事に決めた。
 抜け出すチャンスがあるかもしれない。

 ―――そう思った直後。


『ガチャッ』
「よー、起きてるか?」
 間の抜けた声で言いながら金属のドアを開けて入ってくる細身の男。
 この場に入って来るにしてはだらしなく表情の緩んだその男は………

「……イーグル…」
 ありったけの怨みを込めた、いっそ呪詛のような声音でその名を呼ぶコイフ。
 イーグルはそれに対して、「元気みてーだな」と言って、へらりと笑った。

 イーグルの後ろから、スーツ姿の男達がぞろぞろと入ってくる。
 男は全員で6名。森で戦った者と同じ格好をしている。

「お前、やっていい事と悪い事があるだろう。こんな命令違反をして……下手しなくとも組織から除名されるぞ」
「いやー、除名されてもこっちの依頼人が定年まで雇ってくれるって言ったからなぁ。しかも給料いいし」
「お前っ……!」
「まぁまぁ、そんなにかっかすんな」
「これが騒がずにいられるか!」

 コイフがイーグルに怒鳴ったので、牽制の為か、イーグルの後ろにいた男達がコイフに銃を向けた。
 しかしその行動をイーグルが制した。

「やめとけって。約束だろ?」
 目をスッ、と細めて、一瞬にして冷たい表情を作り出したイーグル。
 ……『仕事』の時の顔だ。
 男達は慌てて銃を下げ、人形のように棒立ちになった。

「……約束?」
 コイフが訝しげに尋ねれば、イーグルは冷たい、射殺すような視線を返した。
「俺がお前を、ここで殺す。だから他の奴らには手を出さないように言ったんだ」
「……何、だと?」

 カツリ、コツリ。
 無機質な部屋に、イーグルの靴音が響く。
 コイフは横たえられたまま、近付いてくる彼を見上げた。
 表情の寒暖が、あまりに酷いその男を。

「俺の依頼主からのご要望だからな」
「アタッシュケースは?暗証番号がかかっているだろう」
「諦めた。元々、その中身を見る事が目的じゃないしな。ケースごと破壊するか、出来なければどこかに隠せばいい。つーことで、放っておくとまた情報を盗み出す可能性のあるお前は殺して、多少のハッキング能力を持つ俺は手元に置いておこうって事になったわけだ」
「……それで、私を殺せる可能性の最も高いお前がここに寄越された、と?」
「当たり。ついでに、俺はまだ完全に信用されたわけじゃないから、アンタをきちんと殺せれば俺的には信頼獲得プラス強敵排除で二度美味しいって奴だ」

 コイフは、イーグルの後ろにわざわざ男が6人もついて来ている事に納得した。
 イーグルを完全に信用していないのなら、イーグルがかつての仲間を本当に殺す事ができるのかを見張る役目として来ているのだろう。

 イーグルは、腰のホルスターから銃を抜いて、コイフに照準を合わせたまま、すぐ近くでしゃがんだ。
 コイフの目の前に、銃口が見える。
 ……旧式の銃ではない。光弾銃だ。
 これならば頭蓋骨程度は簡単に貫通するだろう。

「コイフは組織の訓練のせいで毒ガスも効きゃしねーし、都心から結構離れているとはいえ、まさか政治家の管轄するビルの地下で爆発事件を起こすわけにもいかねーから、部屋に爆弾を投げ込むのも不可だ。これが一番確実ってわけだな」

 銃を構えたイーグルの右手首に、カッターシャツの袖の隙間から何か金属の様な物がちらりと見えた。
 じっと目を凝らすと、それが何かの装置だと分かる。
 袖のボタンは外されていたが、それでも布が邪魔をして、何の装置なのかは良く見えない。
 おまけに、コイフは寝転がっているので、角度を変えて見る事もできない。

「じゃ、そろそろ死んでくれ」
 イーグルはコイフの額に銃口をぴたりとくっつけた。
 それによってイーグルの手首が近付いて、コイフには袖の隙間から見えるその装置が何なのか、はっきりと見る事が出来るようになった。
 ……そして、

「……ああ、仕方がないな」
 諦めたように、コイフは目を閉じた。
 イーグルはそれを見て満足そうに口角を歪めた後、銃の引き金に指をかけた。


 パン、パパン。


 連続した発砲音。
 続いて、くぐもった声。
 監視カメラの壊れる音。
 ……どさりと、人が倒れる音。

「なっ、なっ……」
 驚き狼狽える男達。
 その内の一人が無言で倒れて、床に鮮血を広がらせた。
 痙攣しているので、死んではいないだろう。

 カランカラン、と、倒れた男が何かのスイッチの様な物を右手から取り落とした。
 ……イーグルが撃ったのは、スーツ姿の男の一人だった。

 男達は慌ててイーグルに向けて銃を構えるが、その銃が火を吹く前にイーグルが立ち上がり、男達に向けて発砲した。

 パパパパパンッ!!

 精密さには欠けるが、それでもイーグルは確実に男達の腕や手を残らず打ち抜いた。
 男達の銃はライフルで、更に旧式だ。 …要するに、重い。
 これで簡単に銃は持てないだろう。

 重そうな音を立てて床に銃が落ちる。男達が取り落としたものだ。

 銃を使えなくなったと分かった瞬間、男達の内3名が、先刻床に落ちたスイッチの様な物を拾おうと駆け出した。
 残り2名はイーグルに足での格闘攻撃を仕掛けた。
 が、イーグルは素早くスイッチを拾い上げた後、蹴りかかってきた2名を銃のグリップで強打し、流れるような動作で残りの3名にもかかとをお見舞いする。

 床で芋虫のようになっているコイフは、倒れてくる男にぶつかりそうになったが、ごろごろと転がって全て避けた。
 部屋の中には6名の気絶した男と、銃を持ったイーグルと、縛られたコイフが居て、静寂が舞い降りた。

 イーグルは再びコイフの側にしゃがみ込んだ。
 コイフはイーグルを見上げた。

「………何から聞けばいいのか分からない」
「あー、まぁ、全部話すから取り敢えずこれの分解、頼むわ」

 イーグルは、カッターシャツの袖を捲って手首の装置を見せた。
 液体の入った球体の下に、細い、小さな針のようなものが付いている。
 先刻男が落としたスイッチを押せば、遠隔操作で注射のように装置の球体からイーグルの手首に毒が注入されるのだろう。

 つまりこれは毒の注入機であり、恐らくイーグルが彼らを裏切った場合にはスイッチを押してイーグルをどうにかするつもりだったのだ。
 並の戦闘力でないイーグルには、武器に訴えるより有効な対処法だ。
 信用していないとはいえ、ここまでするとは手が込んでいる。

 先程袖の隙間から見た時、既に装置の分解方法を頭の中で組み立てていたコイフは、ふと気になったことを口にする。……愚問に近い気はしたが。

「…今のお前は敵か?味方か?」
「あー、味方から敵になって再び味方になった、って感じか?」
「……」
 ズボンのポケットから折り畳み式ナイフを取り出してコイフの手首の縄を切りながら、イーグルはにこやかに答えた。
 そう言われても、コイフには現状がさっぱり分からない。

 イーグルは力任せに腕の縄も脚の縄も掻き切り、パチンとナイフを畳み直してポケットに仕舞った。
 そのついでに、ポケットから手袋を取り出して、コイフに向かって放った。
 ……取り上げられていた、仕込み手袋だった。
 コイフは硬直した体をあちこち動かしてから、それを両手に嵌めた。

「状況は向こうに知れてないだろうが、監視カメラぶっ壊したから、何かが起こってる事は察してるはずだ。なるべく早く解体してくれ。俺の依頼人がもう一つ予備のスイッチを持ってるんだ」
「……ドライバーはないのか」
「ねーだろ普通。ディシア事務長じゃあるまいし。 ……あの人何でいつも胸ポケットに精密ドライバー持ってるんだろうな」
「知るか」

 状況が変わった時に瞬時に対応できるよう、二人とも膝立ちになりながら会話をする。
 イーグルは右手首の毒入り装置をコイフに突き出した。
 コイフは一つ溜息を吐いて、銃を渡すように言った。

「にしても、あの状況でよく俺がお前を撃たないって分かったな」
「生憎、あんな大根芝居で気付かないほど私は鈍くさくないからな。お前の置かれている状況どころか、この建物の場所までご丁寧な説明をどうもありがとう」
「どーいたしまして」

 銃を受け取ったコイフは、イーグルの右手首に銃口を向けた。
 慎重に照準を合わせる。
 パン、と一度発砲音が響いて、イーグルの右手首に装着された装置の金具を銃弾が微妙な角度で掠めた。
 コイフはイーグルに銃を返して、緩んだ毒装置を手首からさっさと取り払った。

「助かったー…。俺、この毒の訓練まだ受けてねーんだよ」
「この毒は気を抜けば訓練中にあっさり昇天する。私が一番てこずった型だ、頑張れよ」
「……うえー」
 イーグルが嫌そうに呻く。

 コイフは部屋の外に幾つかの気配を感じ、素早く立ち上がった。
「…今行くべき場所は決まっているんだろうな?」
「ああ、だからこそ迎えに来たんだ。 ……状況説明は、走りながらでいいか?」
「そうしてくれ」

 イーグルは受け取ったばかりの銃をコイフに突き返し、立ち上がる。
 格闘技のできるイーグルと違い、コイフは銃を持たないと殆ど戦えないのだ。


「……えーと、どこから話そうか…」
 部屋を出て、まず監視カメラの死角となる場所からコイフがカメラを射撃。
 状況を探りに来たスーツ姿の男3名を、イーグルが手刀のみで昏倒させた。

「わざわざ私を騙してまで敵についた訳は?」
「本拠地の早期発見と侵入の為。ほら、敢えて味方になった方が教えてくれやすいだろ?本拠地のダミーとか多かったから絞るの大変そうだったし」
「私を騙した理由になっていない」
「こっちの依頼主及びその部下への精神的脅迫。お前の実力をある程度見せ付けてから、それを簡単に倒せば、面白いほど怯えてくれただろ?その直後なら恐怖に乗じて俺の言う事を多少聞いてくれると思ってな。実際お前をここに運ぼうって案を出したのは俺だし、ここは本拠地だ。まんまと二人して潜入に成功したってわけだな」

 コイフは精確な射撃で次々と監視カメラを潰してゆく。
 進行方向以外のカメラも破壊して、こちらを監視しているであろう人間を混乱させるように仕向けながら。

「本来の仕事内容を無視するなど、勝手にそんな事をすれば除名処分は免れないだろう? そこまでして何のメリットがある」
「いやー、実は組織の上層部承認の事なんだな、これが」
「………はっ?」
「敵を騙すにはまず味方からってな。最初からこうなる予定のミッションだったって事。組織の中で知らなかったのはお前だけ」
「……………」

 という事は、コイフ側の依頼主の写真を処分したのはイーグルでなく組織の上層部である可能性が高い。
 最初から上層部もグルだったのだ。

「俺は反対したんだけどな。ま、これ以降こんなミッションを組まないように上層部脅しといたから安心しとけ」
「上層部の事務どもめ……」
「てな事で、俺は本来の『情報譲渡』の依頼をお前と組んで遂行するわ」

「……そういえば、譲渡する相手はどうなっている。私の依頼主はそちらが捕らえたはずだろう」
「そーこなんだよな」

 徐々に増えてくる追っ手に、戦力では負けていなくとも数で圧倒されそうになる。
 監視カメラは死角から撃ち壊していたはずだが、余程見つかりにくい場所にも隠されていたのか、それとも誰かが無線か何かで増援を頼んだのか。

 イーグルは素手で軽く相手をのして、コイフは銃でその援護をした。
 取り敢えず前には進めそうだ。

「そっちの依頼主の事は命令されて捕まえただけだし、閉じ込めて終わりかと思ってたんだが……これは俺の計算外だ」
「……?」
「依頼の期限までちょいと時間が迫ってるが、それより現状が厄介だったりする。今向かってるのがコイフの依頼主…まぁ今は俺の依頼主でもあるわけだが、つまりそいつが居る部屋だ」
「ああ」
「俺らと同じ地下に居るから、わりとここから近い」
「…で?」
「現在危機に直面してるはずだ。っつっても殺されるとかじゃなくて、催眠術なんつー原始的な方法で今までの記憶を敵の悪行ごと消される」
「…つまり全部無かった事になって、敵はこれまで通り悪行を続ける、と」
「その通り。殺したら何かと厄介だからだろうな。で、俺がそれを知ったのがついさっきだ」
「……ああ、だからこんな強行突破に出てまで急いでいるわけだな」
「その通りパート2」
「……」

 スーツ姿の男達を蹴散らしながら、二人は少し大きめのドアの前に辿り着いた。
 コイフが入れられていた部屋のものと同じように、重そうな金属のドアだ。

「記憶なんて消されたら、俺らが苦労した意味無いっての。 ……この部屋に居る。さっさと助け出すぞ」
 言って、イーグルがドアを開けようとノブに手をかけた……その時。

『ガコン!』

「逃がさないぞ、裏切り者!」
 突然廊下の右側の壁が開き、男が10人程一気に雪崩れ込んできた。
 壁に隠しエレベーターがあったらしい。そこからぞろぞろと狭い廊下に入ってきているのだ。
 裏切り者、とはイーグルの事だろうか。

 コイフは男達の格闘攻撃にドアから引き離されそうになりながら、銃で対応してイーグルに視線を送った。
 イーグルはその視線だけでコイフの言いたい事を察し、コイフの周辺に居る男を中心に片付け始めた。

 コイフは隙を突いてドアノブを捻るが、鍵がかかっていた。
 銃弾を鍵穴に何発か撃ち込んでからもう一度ドアノブを捻ると、金属が擦れる嫌な音を出しながらも開いたので、薄く開き、一人だけ素早く室内への侵入を果たした。

 イーグルを戦わせつつ部屋に入ったのだ。勿論敵はまだ残っている。
 しかし依頼を受けている以上、依頼主の安全確保は鉄則だ。
 時間が無いのならば、二人で戦って勝ってから中に入るよりこちらの方が早い。

 コイフは後ろ手にドアを閉めて敵の侵入を防ぎながら、片手で銃を構えた。
 コイフが入れられていた部屋と同じく窓が無く、薄暗い。
 室内には白衣の男が一人と、灰色のスーツを着た中年の男が一人。それから、ライフルを構えた黒スーツの男が二人。

 白衣の男と中年の男は二人とも背もたれの無い椅子に座っており、いきなり見慣れない人間が部屋に飛び込んできた事に驚いたように固まりながら、コイフをじっと見ていた。
 どうやら催眠術をかけようとして、コイフが飛び込んだ音で失敗したらしい。
 催眠術は、その名の通り睡眠状態に近付けるものなので、途中で大きな音を立てれば、かけられている方は目が覚めてしまうのである。

「騒々しいぞ!失敗したではないか」
「いや、失敗してくれていなければ困る」
 白衣の男が怒声を飛ばしたので、コイフはさらりと受け流した。

 どうやらこの男が催眠術者で、向かい合うようにして座っている中年の男がコイフの探していた依頼主らしい。
 この催眠術者はコイフの顔を知らないようだ。
 しかし両脇に居る黒スーツの男達は知っているようで、ライフルの照準を素早くコイフに合わせて、引き金に指を掛けた。
 コイフは男達の銃の引き金が引かれる直前に、持っていた銃で撃った。

 パパパン!パパン!

 旧式の銃に比べて軽い銃声。
 しかしその銃弾は黒スーツの男二人の肩の骨を貫通していた。
 男二人が、撃たれた衝撃で倒れて、痛みにごろごろと転げ回った。

「……連射が利くのはいいが、どうも銃身と引き金が軽すぎるな…」
 コイフは小さく文句をいい、銃を見る。
 最新の光弾式銃なので弾を込める必要が無い。それ故、重みに欠けて照準がずれやすいのだ。
 精密射撃をするより多くを撃ちたい、というイーグルにはぴったりなのかもしれない。

 コイフは銃を片手に持ちながら、椅子に座った二人に近付いた。
 白衣の男は震えて声も出ない状態のようだった。
 灰色のスーツの男も同様に怯えている。

「……さて、貴方は今度こそ本当に私の依頼主のフジタニ様ですか?」
 灰色のスーツを着た中年の男に視線を合わせながら尋ねる。
 すると、男は怯えた表情から一変して驚いたような顔をした。
 そして、軽く頷いた。
「貴女が組織のエージェントさんですか」

 今は手元に無いが、ボイス・メモで確認する必要もない。 この男の声は記憶に残っているそれと完全に一致した。

「もう一人外で戦っていますがね。 …依頼の品はもう少しお待ち下さい。今は貴方の安全が優先です」
 コイフは入り口に近付き、ドアに耳を当てて部屋の外の様子を窺った。
 その間、敵である白衣の男に銃を向けるのを忘れなかった。……攻撃に出る様子は皆無だったが。

「……こちらへ来て下さい。出ましょう」
「し、しかし外では戦っていると……」
「敵が何の為に貴方に催眠術をかけようとしたか分かりますか?」
「………、成程」

 フジタニは得心したように頷き、部屋の入り口まで歩いた。
 白衣の男が何かを言おうとして、結局口をぱくぱくさせただけだった。
 二人は、部屋の外に出た。

「お、出てきたか」
 イーグルが笑みを浮かべてコイフとフジタニを見た。

 部屋の外に居た敵はイーグルが粗方倒した後だったが、二名ほど残っていた。
 その二名が一斉にコイフとフジタニの方へ振り返って、銃を向けた。
 ……が、その直後に動揺が走る。

「撃てないだろう」
 言って僅かに笑みながら、コイフはフジタニを前面に出して歩いた。
 敵は銃の照準を合わせようとして、やめて、をおろおろとしながら繰り返した。

 ……そう、政治家であるフジタニを殺してしまっては、事件として騒がれてしまう。
 死体を隠した所で、その存在の行方を誰も捜さない等といった事があるはずはない。
 だからこそ敵は催眠術で記憶を隠蔽しようと試みたのだ。
 殺せないのなら、銃は撃てないだろう。

「盾にして申し訳ありません。が、今はこれが私達にとっても貴方にとっても一番の安全策です」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。 ……イーグル、アタッシュケースのある場所は知っているか?」
「問題なし」
「よし、突っ切るぞ」
「おしきた」
 イーグルが真剣な顔で不敵に微笑み、そして三人は走り出した。


 ***


 難なくアタッシュケースを奪い返して、地下から地上へと出た三人は、この建物の出口に近付いていた。
 途中、イーグルやコイフのみに攻撃を仕掛ける者も居たが、二人の力量の前に勝てる者などこの建物内に存在するはずも無く。
 体力のあまりないフジタニが途中で何度かバテたが、それも計算の内だった。

「出口だ!」
 イーグルがコイフとフジタニに告げた。
 視線の先には、幾つか並ぶガラスのドア。 ……と、それから。

「……ウカワ」
 敵の総大将である男の名を、フジタニが呟いた。

 出口の前には、ウカワと、森に来た偽依頼人(どうやら本当に幹部クラスだったらしく、ウカワの隣に居る)と、銃を持った厳つい男が6名並んでいる。

 フジタニはコイフ達に『国家予算を使い込んだ輩を突き止め、証拠を提出する』という依頼を出したのだから、敵がウカワである事を知らないはずだが、この場にウカワが居る事に然程驚いている様子は見せない。
 どうやら、ここに連れて来られるまでに顔合わせをしたらしい。
 コイフだけが一度も会った事が無く、「あれがウカワか…」と呟いていた。

 ウカワは、一歩前に進み出て言った。
「待っていましたよ、フジタニさん。取引をしようじゃありませんか」
 媚びる様な笑みと、擦り寄るような猫なで声。
 コイフは鳥肌の立った腕をさするのを堪え、ウカワを胡散臭そうな顔で見た。

「……フジタニ様。この取引は貴方が全決定権を持つ事になります。状況がどう変わる事になろうと、私共の同意を得ずに決定して構いません」
「分かった。 ……取引の内容は?」
 フジタニが尋ねると、ウカワは更に笑みを深めた。
 ……その顔を「まるで猿の写真を横に思いきり引き伸ばした様だ」と心中で評したのは、自分だけではないだろうとイーグルは思う。

「単刀直入に言いましょう。私と行動を共にしませんか? これまで以上の高水準生活を約束しましょう」
「それでは今までの行動が無駄になります。そして罪を共有する事に本当の利益は生まれない、と私は信じます」
「成程、正義感がお強いようで。 ……ところで、ご家族はお元気ですか? 確かお子様が二人と奥様がいらっしゃったと記憶していますが」
 その言葉に、フジタニは一瞬怪訝そうな顔をして、それからすぐに目を見開いた。

「家族に……何かしたのですか?」
「そんな、まるで既に危害を加えたような言い方はしないで下さいよ。 私はただ、もしもの時の為に遺書を書いて頂いただけで」
「自殺に見せかけた所で、私は世間に真実を訴えますよ」
「その場合、貴方は不慮の事故でお亡くなりになります」
 フジタニは、何も言い返せなくなった。


 数秒の沈黙。
 次に口を開いたのは、コイフだった。

「交渉中失礼します。フジタニ様を殺害できなかった時点でご家族の殺害も考えにくいかと」
 ウカワの表情が変わった。 「余計な事を」とでも言いたげだ。

「ついでに言いますと、我が組織はそんな事のケアもせずに今回の様な大きな依頼をこなす程いい加減ではありません。既にAクラスのエージェントが何名かで護衛に当たっているはずです」
「……貴様、意見はしないのではなかったのか」
「決定権はフジタニ様に委ねましたが、意見をしないと言った覚えはありません」

「くそっ……そうだ、イーグル!お前はこちらに戻ってこないか? 報酬は初期価格の3倍払おう」
「残念、今は金より仕事優先。やっぱ金儲けより仕事のが面白いし」
「ちっ……こうなれば全員でフジタニを捕らえろ!記憶を消す!残りは殺して構わんっ」
 ウカワが叫び、並んでいた6名の厳つい男がガトリング式の大きな銃を構えた。
 と同時に、柱の陰や幾つもあるドアの向こうから、無数の男達が様々な武器を構えて入ってきた。
 コイフ達の居る玄関ホールは、あっという間に武器を持った男で埋まった。

「あー、いいねぇ。やりやすい上に分かり易くて」
 イーグルが呆れたように肩を竦め、コイフは今まで借りていた光弾式銃をイーグルに返して、ついさっき奪い返したばかりのアタッシュケースを蹴り上げた。銃口を出して、戦闘準備完了だ。
 当然こういった場面に慣れていないフジタニは動揺したが、

「三分で片付けるぞ」
「ラジャー」

 この二人の力量は既に見ているので、取り敢えず心配はしなかった。


 ***


 柔らかい光が広い室内を照らす、穏やかな昼下がり。

「おーおー、ウカワのオッサン大変だな」
 手の平に載せた薄い機械の画面を覗き込みながら、イーグルは感嘆の声を上げた。
 その機械に映っているのは、今朝新聞会社から送られてきた記事だ。
 新聞が紙でなく専用の機械に文字だけ送られるようになって久しいが、紙の新聞を好む者もいるので、市民のごく少数はまだ紙の新聞をとっているらしい。

「なぁコイフ、ウカワがやってた事ってのは思ったより大規模な事だったんだな」
「お前がどの程度だと思っていたのかは知らんが、まあ常識から考えられない度合いではあるな」
 数時間前に読んだ記事を思い返しながら、コイフはテーブル越しに座っているイーグルにそう応じた。

 白いテーブルと白い椅子が幾つも配置してあるそこは、一見するとまるで普通より大分広い喫茶店のように見えるが、実は組織の建物内にある休憩室だ。

「政界は荒れるだろうな」
「荒れないわけがない。現に政治の手法が大幅に変わるそうだ」
「だな」

 新聞用の機械の電源を切って、薄い蓋をぱたんと閉じる。
 イーグルはそれをテーブルに置いて代わりにカップを持ち、コーヒーを啜った。

「にしても、今じゃフジタニのオッサンが英雄扱いだもんな。俺らはおまけ扱い」
「こちらが目立っては組織が困る。組織自体が合法であっても、注目されっ放しでは隠密部隊が動けまい」
 コイフは、先程から持っているA4サイズの紙束の内一枚を読み終えて、一番前にある紙を一番下に重ねた。

「……イーグル。政界の事よりも、一つ聞きたい」
「何だ?」
「ウカワ側から組織の極秘ラインにハッキングをしただろう」
「あー、あの後組織から持ち出したウイルスソフトをこっそり使っといたから、ウカワ側のハッキング履歴に組織の情報は残ってねぇよ。それどころか、もう起動すらできねーかもな」
「ならいい」
「ちょいと高価そうだったから勿体なかった」
「仕方が無いだろう」
「まーな」

 ぺらり。コイフは二枚目の書類を読み終えて、捲る。
 イーグルはコーヒーを半分飲んで、一つ息をついた。

「……コイフ」
「何だ」
「フジタニのオッサン、今回の事を依頼した理由は何だったんだろうな」
 イーグルの言わんとする所は、コイフにはすぐに分かった。
 コイフは一旦書類から視線を外して中空を見、数秒して何事も無かったかのように再び視線を落とした。

「それは本人にしか分からないだろう」
 抑揚の無い返答と、再び紙を捲る音。
 イーグルは「まあな」と呟いた。

 フジタニが組織に依頼をしてまでウカワを捕まえたかった理由。
 政界において、法に背く輩が居るのが単純に許せなかったのか、それとも現在のように、名誉を得る為だったのか。
 メリットの有無という点で考えると、後者の可能性が高い…が、依頼遂行中に話をした限りでは正義感が強かった様なので、前者のような気もする。

 しかしそれは考えた所で答えなど出ようはずもないし、考える必要すらない。
 しばらく沈黙が流れて、コイフはまた紙を捲った。
 やがて、

「……さて、明日はまたハードな依頼が組み込まれているようだ。今から準備でもしておくか」
「げ、明日かよ。俺、もう少し休みが欲しい」
「仕方が無いだろう、上層部と依頼主の都合だ」
「俺らの都合も考えろっての……」
「そんな素敵な思考回路を持つ上司がこの組織に居るか?」
「…………………、数秒考えた挙句誰一人挙がらない事に寧ろ涙が出そうだ」

 コイフは、紙束……依頼内容確認書から目を離し、クリップで留め直した。
「行くぞ」
「……うーい」

 コイフは書類を持って、イーグルはコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がった。





〜END〜




<アトガキ。>

おおお終わったああぁ!!これを書くのに随分時間がかかってPCすら開けない日が続きましたよ。
これワープロで打ってたんで。 ここに載せる為にワードに打ち直しましたけどね。
「墓前の〜」と一緒に、文芸部の部誌(雑誌みたいなの)に載りました。

いやー、近未来とか政治家とか書くもんじゃありませんね。
慣れていない感が自分で読んでいてバリバリですもんね。
世界観とか伏線とか、ちゃんと成り立っていればいいんですが;(しっかりしろよ)
矛盾があるかもしれない…(コラコラ)

ちなみに後編でもちゃんと「赤ずきんちゃん」に沿ってます。
前編では狼(敵)に食われた(捕まった)所まで行ったので、
後編では猟師(イーグル)が狼の腹(敵の本拠地)から赤ずきんちゃん(コイフ)を助けましたよ。
ちなみに「赤ずきんちゃん」ではお婆さんも食われているはずなので、この話では先に捕まったフジタニ辺りがお婆さんなのでしょうか。…うわぁ。(何)

何にせよ、かなりてこずったものの、書いていて結構楽しかった話です。
イーグルとコイフみたいな関係は面白いんですよ、書き手としては。(お客様への配慮は?)
両方男にしてもよかったのですが、それだと女性が一人も出てこなくてムサかっ…げふんごふん。
とにかく、何だか「オイオイ大丈夫なのかよ?」みたいな人達なのに実は以心伝心滅茶苦茶強い、みたいなのが理想。
いや、今回でそれが表現できたかは…果てしなく微妙ですがね!(何だと)

とりあえずこれ以上語ると収拾がつかなくなるので、これにて失礼。

2006.4.25