「キ、…カ」
呼んでも動かない。揺すっても動かない。
薄く開いたままのいびつな眼球が、虚空を見上げていた。
「――っあ、ぅ、…っあ」
ひとりでに、涙がこぼれてやまなかった。
悲しいのか、苦しいのか、それすら分からないまま。
自分の体を抱き締めて、その指が腕の傷に食い込んでも。
…構わずに涙をこぼし続けた。
ともすると、痛みでこの感情を消せないかとでも思っていたのかもしれない。
けれど、どんなことも無駄だった。
何も心を打たなかった。
ただひたすらに、キカが動かないことがつらかった。
―――キカ。
僕はキミを、幸せにしてあげたかった。
キカ。
最後の約束だけが、頭の中を巡っていた。
満月ほどに明るい月が、それを見守る夜だった。
「―――どうして」
呟く声が、震える。
「どうして、キミがこんなことに」
何も悪いことなんかしていないのに。
ただ、そこに在っただけなのに。
僕が、キカが、何をしたというのだろうか。
目の前が真っ赤に染まった、ような気がした。
「―――――――――!!!!!」
声にならない慟哭が、闇の中に溶けていった。
● −┼―――−- last promise _If -−―――┼− ●
最初にやったことは、川を渡って森に戻ることだった。
キカを岩の間に寝かせたまま行ってきますの挨拶をし、濡れるのもかまわず川を渡り森に入った。
透明化もせず大手を振って歩く。
目的地は、町だった。
歩く内に、誰かがその姿を見つけたのだろう、声が幾つか聞こえた。
だからスマイルは声の主を全員見つけるまで待って、近づいてきたところを透明化して出迎える。
突然消えてしまったスマイルに、町人達は当然動揺した。
まともな判断力を失っているその隙に、スマイルは町人の一人から武器を奪って――奪い取れたのは大きめの鎌だった――首に突きつける。
「ひっ……!!」
「―――ねぇ。僕らが一体なにをしたのか聞いてもいい?」
「な…何…!?鎌が浮いて、」
「聞いても、いい?」
つぷ、と鎌の切っ先が見知らぬ男の首に食い込む。
珠のような血液が滑り落ちた。
「きゃあああ!?」
「た、助けてくれ…!助けてくれ…!!誰か!!」
「無理よ、どこを狙えばいいのか分からない!!」
「そんな…!」
混乱している様子を無表情で見詰めて、答えがないのに焦れたのかスマイルは適当に首を掻き切って男を開放した。
ずしゃり、と男は倒れこむ。
殺すほど深く傷つけてはいないから、きっと平気だろう。
キカにつけられた傷はこんなものではなかった。
「そう。こんなものじゃなかった。ただ平和に暮らしていただけのキカがある日突然町の住人の勘違いだけで血まみれになって死んだんだ、僕が無差別に報復したって何ら問題ないよね」
キミたちの勘違いは、一人の罪なき少女を死に至らしめた。
死なせた。
殺した。
声を上げて笑おうとして、うまくいかなくて、スマイルは鎌を投げ捨てる。
固まって動けない町人達はそれにびくつく。
別の町人も騒ぎを聞きつけて集まってきだしていたが、構わなかった。
それどころか好都合だった。
全員に聞こえるように、話す。
「ねぇ、キミたちは上手く乗せられてるみたいだけど―――僕らが何をしたのか、聞いてもいい?」
ほんの少し、どよめきが走る。
聞く耳を持っているのなら話は早い。
「お、お前ら妖怪は……町の人間を3人も殺したじゃないか!!」
「それね、僕らじゃないの。僕ら何もしてないのに、急に断罪っていう大義名分掲げたキミらに襲われたの。3人を殺した犯人も知ってるよ。同じ町の人間だ。それなのにキミたちは僕らを容赦なく襲った。ねぇねぇ、これが何を意味するか分かる?――キミたちは、何の罪もない二人を突然襲いに掛かったクズどもだ」
「よ…妖怪の言うことなんて誰が信じるか!!」
「こうして話までしといてよく言うよね。僕らが自我もなく人に襲いかかるような野獣だと思ってる?そんなわけないよね、ちゃんと筋道立てて話してるもんね?」
姿が透明になったまま、手近な細身の女性をぐいっと引っ張り寄せる。
ひ、と短く悲鳴が上がった。
「僕の言うこと、通じてるよね?僕はキミらの襲撃をうけて、反撃するどころか逃げ出したよ?これが凶暴な妖怪、なのかな」
「―――っ!!」
怯えた表情の女をぽいと地面に捨てて、「あぁ、」と息を零す。
「勿論今は怒ってるから容赦なんてしてやらないけど。―――これを言えば喜ぶのかい?キカは――小さい方の妖怪は、さっき息を引き取ったよ。滅茶苦茶に切り裂かれてさ」
ざわめく人々の間をすり抜けて、彼らの背後に回りこむ。
「僕の言い分はこうだ。平和に細々と暮らしてただけの家に、突然人間たちが襲いかかった。僕らは何のことか分からないまま逃げ出した。それで、結果一人殺された。冤罪のために命を奪われた。――こんなことをされたらどう思うか解ってるよね」
突然背後から聞こえるようになった声にいくつも悲鳴が上がる。
だがそんなものは関係がない。
「同じことをされたら、気持ちくらい分かるかもしれないね?」
少なく見積もっても15人は居た。
それに向かって満遍なく声を張り上げて、スマイルは透明になったまま一番手前に居る背の低い男を引っ掴んだ。
そして叫ぶ。
「僕の仲間を――キカを殺したのはお前かあああああぁ!!」
叫びに混乱した町人が叫び惑い後ずさる。
掴まれた本人を除いて。
「えっ、ち、ちがっ、どういうことだ!!?」
勿論殺してなどいない彼はひときわ動揺する。
「違う!!俺がやったんじゃない!!」
必死になって弁明するも、スマイルの存在が恐ろしいのか、スマイルの言葉を真に受けたのか、皆じりじりと後ずさるだけで助けようとしない。
「ねぇねぇ、キミは罪もない小さな子を滅多刺しにして殺したんだよね?安全のためにもさっさと居なくなった方がいいよね?」
「っお、俺じゃない!!放せ!!!」
「誰が人間の言うことなんか信じるかい。さあ死んでしまえ」
彼が持っていた鉈を無理矢理奪い取って斬りつける。
腕がめしゃりと音を立てて折れたのを聞いた。
「っ、あ、あああぁぁぁ!!」
手をはなすと、男は腕を庇いながら地面でもがいた。
その様子に更に町人達は怯える。
「ねぇ、ねぇ、君達が追い掛け回していた『小さい妖怪』はこんな風に冤罪で死んでしまったよ。こんなものじゃなかった。ひどい傷を負って、死んでしまったよ。死にたくないって言ってた。住んでた家も追い出されて、ひどく追い回されて、しつこく刺されて、死んだ。僕はあの子ほど優しくないから、キミらに同じことをしてあげる。今からキミらの家に行くね?それでキミらの大切な人達を…どうしようかなぁ。冤罪だって構わないんだよね?」
ヒヒヒ、ヒーヒヒヒ、心底楽しそうにスマイルは笑う。
そして歩き出した。――町に向けて。
足音と笑い声でどちらに向かって進んでいるのかを察した町人達は、何が起きるのかを想像して必死に止めようとする。
――が、止めるべき相手がどこにいるのか分からない。
人数に任せて取り押さえようにも、スマイルも本気で回避するから捕まったものではない。
「お、――おい、まずいぞ。本当に町へ行ってしまったら」
「何が何でも捕まえろ!!」
声のする方を囲んで、上手くすり抜けられて、しばらくそれを繰り返した。
やがて何もない空間から走る音がして、遠ざかってゆく。
「まずい、抜けていったぞ!!」
「こうなったら奴が町へ到達する前に町に戻るんだ!!」
「途中で誰かに会ったらこのことを伝えて全員で町を守れ!!」
スマイルを捕まえることから町を守ることに思考を切り替えて、町人達は駆け出す。
怪我をした者は肩を借りて、治療をすべく同じように町へ。
こんなことになりながら、スマイルの表情は酷く楽しそうだった。
――ただひとつ、その瞳は正気を失っているようだったけれど。
***
町に辿り着いてぐるりと見回す。
まだ森の町人達は一人も追いついていなかった。
だからずかずかと町に踏み込んで、口笛を吹きながら何をしようかと考えた。
誰もいない空間から口笛が聞こえて、その辺りにいた何人かはぎょっとしたような顔をする。
見たところ、杖をついた老人や幼い子どもたちは町に残っているようだった。
ならば。
「そうだねぇ、まずは……」
追い出してしまおうかなぁ。
スマイルは透明化を解いて、その姿を晒した。
キカの血に染まった服も、青い肌も、髪も。
「なっ……あれは…!?」
「肌も髪も青い…『青い妖怪』!?」
場は騒然とする。
突然現れたこともそうだが、件の『青い妖怪』に相違ない姿をしているその青年に。
気付いた者から、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。
元々残っていたのは老人や子供だ。逃げるといっても遅々として進まない。
そんなことは分かっていた。
だからスマイルは悠々と脅かしにかかる。
家の中に残っている者へは窓から覗き込みその存在を知らしめ、逃げ遅れた老人には手近にあった木材をわざと外しつつ振り下ろし、散々妖怪の襲来を主張した。
そうしておいて、一人の老婆の腕をひねりあげて捕まえた。
「ああ、た、た、助けて…!!」
「ねえ、人探しをしてるんだけど」
老婆は恐ろしさのあまり動転して耳に入らないらしく、おどおどするばかり。
だからスマイルは殊更丁寧に問う。
「若い女の人。ハニーブロンドの長い髪をしてる。両目を怪我してて、ひょっとしたら町に戻ってるかもしれないんだけど、知ってる?」
「あああ、あ、……あの人、かしら」
「知ってるの?」
「ああ、いいえ、しら、知らないわ…っ」
「嘘つきは牙で滅多刺しだよ?」
「あああああ!!し、知ってます…!確かに戻ってきたわ、怪我をしてるの」
「どこ?」
「あの角を右に曲がって…三軒目の家よ…」
そこまで聞いて手をはなす。
どしゃ、と崩れ落ちた。
「ありがとねぇ。仲間を売ったおばあさん」
その言葉に老婆は頭を抱え込み、呻いた。
今更恐怖と罪悪感に震えているようだ。
スマイルはヒヒヒと笑いながらそれを眺め、言われた通りの場所に向かう。
丁度そのくらいのタイミングで、ようやく森に居た人間がぱらぱらと戻ってきたようだが、関係ない。
右に曲がって、三軒目。
容赦なくそのドアを開く。
「!?な、…何!?」
そこに居たのは、両目に包帯を巻いて、椅子に座る―――件の女。
間違いない。殺人の罪を被せキカを刺し殺したあの女だった。
スマイルは椅子に座っている彼女に無言で近づき、じっと見つめた。
女には何も見えていない。
「誰?…答えて、お願い」
懇願される。
だから、スマイルは返事をした。
「やぁ、さっきぶり」
「―――っ!!?」
折角返事をしたというのに、女は息を呑むだけだった。
けれどスマイルはそれに気を良くしてそっと近付く。
目が見えない分聴覚に頼っているらしい女は、その微かな足音にすら竦み上がった。
「っひ、…いや、来ないで!!」
「随分つれないねぇ。町に戻ってるんじゃないかなぁってわざわざ見に来てあげたのに。お加減いかが?」
「いや…いやぁ!!」
座っていた椅子から転げ落ちて、床を這って遠ざかろうとする。
でもそんなものはスマイルには無意味だった。
そっと、羽のように軽いステップで近づいて、耳元に囁きかける。
「キミにとっては良いニュースを持ってきたんだ。――キカはね、あの子はね、死んだよ」
「っひ……」
「苦しんで、痛がって、死にたくないって言いながら、死んでいったよ」
「―――っ」
みっともないくらいにガタガタと震え始める彼女に、スマイルは笑いかけてあげた。
残念ながら、彼女には見えていないが。
外では大きな声が飛び交っている。
どうやら森から帰ってきた者達が町に居残っていた者達へ指示を飛ばしているらしい。
早めに用事を済ませるべきだろうか。
スマイルは念のため姿を消しておいた。…どうせ目の前に居るこの女にはどちらでも同じことだし。
「あぁ、そうそう。キカを刺し殺されたからって、僕はキミを刺しに来たわけじゃないんだ。だから安心してよ」
「……?」
「とはいえ、街の人達をけしかけたのも、僕らに罪を着せたのも、――キカが殺されたのも、ぜーんぶキミのせいだよね。だからさぁ。……謝ってほしいなって思ってるんだよね」
女は不思議そうな顔でスマイルの居るであろう方向へ顔を向けた。
怯えているだけでなくきちんと言葉を聞いているのだと確認がとれたスマイルは、続きを話す。
「そう、誠意を込めて謝ってほしいのさ。そしたら、何もせずにここから去るよ」
「――ほんとう、に?」
「うん。死んじゃったものはもうどうやったって戻ってこないんだし、それくらいなら謝ってもらった方がいいなと思うんだ」
「………」
女はいくつか深呼吸をした。
頭の整理はしきれていないが、どうやらこの妖怪を追い払う術があるのだということは飲み込めた。
だからスマイルの居る方へ向かって口を開く。
「――ごめんなさい。私が全て悪かったわ」
でも妖怪なのだからいいじゃない。そんな本心は固く仕舞っておく。
スマイルは、ヒヒヒと笑って彼女からの言葉を拾った。
そして。
「やだねぇ、そんなので僕に届くと思ったの?」
「――っ!?」
「僕はねぇ、そんなちっちゃい声で満足なんてしないよ。それに言うべき言葉はそれだけじゃないはずだけど」
「…!!あ…、ぅ」
「さあもう一度」
見えない恐怖、妖怪への恐れ、何をされるか分からない不安感。
それらが女に再び言葉を考えさせる材料になった。
必死に考え直してもう一度。比較的大きな声で、はっきりと。
「あの子を殺してごめんなさい。町の人をけしかけたのも、悪かったわ。許されることじゃないとは思うけれど…ごめんなさい」
懇願するような謝罪だった。
スマイルはそれを聞き届けて―――やらなかった。
「駄目だね。全然足りない」
「っ!!これ以上何を謝れっていうの…!?」
「そうだね、何もかも足りてないのさ。―――キミがやったこと全部に謝ってほしいのに、何を言ってるんだい?寝言に等しいことは置いといて、もっと大事なことがあるでしょ?」
「……それは、何のこと…?」
「ああ、寝ぼけてるのかい?じゃあはっきりと言ってあげるよ。町の住人を殺したのは私でした、ごめんなさいって言いな。それを妖怪のせいにして、挙句口封じをするためにけしかけました、って。何の罪もない子供を含めて全員殺したのは私です、って」
「!!?―――それは、」
「言えないの?僕は心変わりしたっていいんだけど」
台所にすたすたと向かって、包丁を手に戻ってくる。
ひたりと彼女の首に冷たい刃を押し当てれば、彼女はびくりと震えた。
「―――っ、……!!」
「ほら、言うの?言わないの?言うならお腹の底から声を出してね」
女は迷った。これを周囲に知られてしまっては何もかもが水の泡。
けれど死んでしまっては元も子もない。
立場か、命か。命か、立場か。
町の住人に見捨てられるか、刺されるか。
ひょっとしたら家の中で叫んでいるのなんて誰も聞いてないかもしれない。
さっきから外は騒がしいから、紛れて消えるかもしれない。
だから。
「町の人を殺したのは、全部私でした!私は――」
「はい、だめ。ここじゃちょっとね。よいしょっと」
「きゃぁっ」
スマイルは少し重そうに女を抱えて、玄関の扉を蹴り開けた。外の光が差し込んで女を照らす。
丁度ここにスマイルが居るらしいことを聞きつけた町の住人が集まりかけていたから相応の人数がそこには居た。
そんな場所へ、女が降ろされる。
家の前に集まっていた全員から注目される。
「ここで、言ってね」
「―――!!?」
見えなくとも沢山の人間の気配が伝わってくるのか、驚いてスマイルの方へ抗議しようと顔が上がる。
そうなることが分かっていたのか、スマイルは背中から包丁でツンとつつく。
今度こそ本当に天秤に、かかる。
命か、立場か。
これだけの人間に聞かれては、最悪今殺されることを回避したとしても後で町人からの断罪が待っているかもしれない。
それは今刺されて死ぬことよりも重いだろうか。
いやあるいは―――
「考えてる暇、ないでしょ?」
ひそひそ声。
背中に、ぴりっとした痛みが走る。
「キカの傷、酷かったなぁ。何度も何度も、ぐっちゃぐちゃになるまで刺されて。同じ数刺されるのとどっちがいい?」
「―――っ!!」
最早考える余地はなかった。
「――っ、わ、私は…」
「大きな声で」
「私は!!――町の人間を殺しました!!町の3人を殺したのは私でした!!全部妖怪のせいにして、口封じをするために街の人達をけしかけました!!何の罪もない子供を含めて全員殺したのは私ですっ、ごめんなさい!!」
――最初は、何を言っているのか理解できない様子だった。
けれどようやく理解した一部の人間がそれに対して聞き返す。
「いきなり何を…今言ったことは何なんだい?」
だからスマイルは更に耳元で囁く。
「嘘を言ったら――嫌だよ?」
「っ!!」
「何なら、もう一度繰り返してね」
町人は誰一人透明なスマイルに気付かない。
女とスマイルの遣り取りに気付かない。
女は壊れたようにさっきの言葉を繰り返した。
町の人間を殺しました。妖怪のせいにして口封じしようとしました。全員、殺したのは私です。
それだけを垂れ流すスピーカーのようになったのを見届けて、スマイルは「ずっと見てるから、続けてね」と言い残し立ち上がった。
そうして何事もなかったかのようにすたすたと人の群れから出てゆく。
――謝ってもらっただけだよ、何もしてない。
…許すとは言ってないけど。
そんなことを、心の中で呟きながら。
町につくまでは他の人間にも何かしようかと思っていたが、今はどうでもよくなっていた。
得したねぇ、と誰にともなくうそぶく。
透明化したスマイルが一人で森を通ってキカの元へ戻るのは、そう難しいことではなかった。
―ここからラストに繋がる感じ―
**後書き**
まずすみません。やりたい放題やってしまいました。
こっちのが捻じ曲がった感じが出ていていいかもしんないとか思いました。
エグいですよねほんとスミマセン。
話としてはここからラスト、キカちゃんとお母さんを埋葬してゆくところに繋がるかと。
お粗末さまでした!