「口を…塞ぐって?」
 じりじりと後ずさりながら、スマイルは女の吐いたセリフに疑問を感じて問いかける。
 答えが返ってくるとは思っていない。
 何だか引っかかったからそのまま言葉に出しただけだ。

 けれど女はすんなりと答えた。

「言葉の通りよ。――あなた達が町の人達に余計なことを喋らない内に、死んでもらおうと思って」
 ナイフを持って、すたすたと歩いてくる。
 構えなんてあったものではない。まるで挨拶をしに近づいてくるような様子で、ごく普通に。
 それなのに目だけが異様にぎらついて、まるで獲物を狙う狼のようだった。

 スマイルはキカの手を握ったままじりじりと後ずさった。
 ――女の異様な雰囲気に、本能的に危険を感じ取る。

「なんでよ、あたしたち何もしてないよ!しにたくないよ!」
 キカにはその恐ろしさがわからないのか、女へ必死に訴えかけた。
 …が、それを聞いて女は何故かにっこりと笑う。


「知ってるわ」


 ――それは、どちらに対しての答えなのか。
 女は足を止め、満面の笑みを咲かせた。

「そっちの小さい妖怪が人間の言葉を喋るのは分かってたから、最初から口封じをするつもりでこの森へ来たけれど。……まさか噂の青い妖怪が、こんなに口達者だとは思わなかったから焦ったわ。というより、あの旅芸人だったなんてね」
「それはどうも。…で、色々と物騒な単語が出てきたねぇ?」
「ええ。どうせ今から殺すつもりなんだし餞別に教えてあげてもいいわ」

 女がこのまま話す様子だったから、スマイルは一応横目でちらちらと退路を確認しながらもその場に留まり耳を傾ける。
 …どうやら、この人間は何か重要な部分を握っているような気がした。

「端的に言うと。……私の手伝いをして欲しいの」
「手伝い…?」
「そう。私、不幸なの。…酷い男だったわ、あんなのが婚約者だなんて信じられないくらい。――だから殺した」

 地を這うようなおどろおどろしい声に、握ったキカの手が震える。
 女はそれを見て喉奥で笑った。

「折角何が起こったか分からない内にさっさと殺してあげたのに、一度目は戻ってきてしまったけれど。…その後きちんと葬ってやったわ」
「……一つ、聞いていいかな」
「どうぞ?」

 婚約者というからには、男。
 それもひょっとしたらこの女と同年代で、若い。

「――その人、戻ってきた時にずぶ濡れの黒コートを着ていたかな」


 問い、といっても確認のようなその表現に、女は一瞬にして笑みを消す。


「あら。……あいつを助けたのは貴方だったのね。皮肉な話」
 それは言外に肯定を表していた。

 おかしいとは思っていた。
 あんな森の中の川に、人間が流れてくるなんて。
 実際には生きていたが――殺して放り込まれたのだ。

「まぁ、でも、もういいの。その人と一緒に、生かしておいたら危険な人達も二人ほど消した。でもそんな事が知れると大変なことになってしまうじゃない?」
 笑みを消した表情で、口角だけが、クッと持ち上がる。


「―――あとは貴方達が万が一にも弁明する前に、私の代わりに罪を被って死ねば。……全て丸く収まるわ」


 ――だから私を助けると思って、このまま死ね。

 女がナイフを構えて駆け出した。






 −┼―――−- last promise _11 -−―――┼− 







 咄嗟のことに、スマイルは先程視線だけで確認していた退路へ向かって逃げ出した。
 勿論、キカの手を引いて。

 スマイルが全力で走るとキカは手を繋いでいるとはいえ追いつけない。それどころか転びかけた。
 だから宙ぶらりんになりかけたのを利用してスマイルはキカの軽い体を思い切り引っ張り上げて抱え込んだ。
 キカを抱えながら(キカはスマイルにしがみつきながら)走る。

 女もそれを追った。
 薄く、異様な笑みをたたえて。

 追いつかれれば終わりだと思った。
 だから一も二もなく走る。

 けれどキカを抱えてどうにか走っているスマイルと、ナイフだけを持って追いかける女では、どうも差があったらしい。
 徐々にではあるが距離が詰まってきていた。


「っ……、困った、なぁ」
 誰に言うでもなくスマイルが呟いた。
 何を言ったのか聞こえなかったキカは聞き返そうとしたけれど、何となく今は言葉を返してもらえない気がしてやめた。

 元々さほど距離が開いていたわけではなかったので、追いつかれるのも時間の問題のようだった。
 どこか冷静さの残る頭でその考えに至ると、スマイルは息切れの合間にひとつ溜息を零した。

 そして。


「――あのさ!」
 不意に足を止め、スマイルは女に向けて呼びかけた。

 唐突なことに少しでも気を引かれたのか、女も続けて止まった。
 それにひとまずはほっとして、スマイルは何とか女と対峙する。

「何よ。命乞い?」
「キミがもしも僕らを殺せたとして、口は塞げるけど、妖怪を2匹も殺した女なんて不審がられない?どう考えても普通じゃないし、逆にそこから怪しまれるだけだと思うけど」
「それは大丈夫よ。『婚約者を殺された私』がどれほど妖怪を憎んでいるか町中の人が知ってるもの。あとは復讐という言葉が何とかしてくれるわ」
「……」
「命乞いはそれで終わり?」
「……僕らはこのまま妖怪の世界へ行って、二度とこの地に戻ってこない。キミにとって不利なことは何も言うつもりがない。それでも見逃せない?」
「素敵ね。でも…それが本当である証拠は?」
「無い。けど少なくとも人間界に居るよりずっとましだと思ってる。あとは、それを破って死ぬつもりがないだけ」
「ふうん…、」

 女は一瞬表情を消し、目を細める。
 緊張した空気が流れた。

「この場で私を説得しようとしてる辺り、あなたたちに反撃するほどの力はないってことなのかしら。好都合よ」


 女の言葉が想定していた中で一番最悪のものだったことに苦虫を噛み潰したような顔をして、スマイルはキカを抱え直しながら再び駆け出した。
 女もそれを追う。

 説得も無駄だった。
 姿を消して誤魔化すことも、この距離では意味が無いだろう。何より先ほど一度見られてしまっているし。

 ならばどうすれば。
 …どうすれば。

「…スマイル、追いつかれそう」
「うん……、そうだね、分かった」

 不安そうなキカに、スマイルは一つ頷いた。
 それは決心の現れでもあった。

「キカ。…これから地面に降ろすから、自分の足で走って逃げて」
「え?あたし、走るの?」
「そう。僕があの人を止めるから、これまでみたいに町の人を避けながら逃げて。一人でもできるね?」
「え?え?スマイルは?」
「大丈夫。作戦、ちゃんとあるから。…後から追いつくよ」

 まだ何か言いたそうにキカが口を開くも、それが言葉にならない内にスマイルは足を止めつつキカを降ろした。
 有無を言わせないままに、肩を軽く叩いて「行って」と促す。

 嫌だ、と言いたかったが、スマイルの目がそれを許さなかった。
 キカにとって怖い部分のスマイルがそこには居て、無感情にキカを押し出したのだ。

 だから躊躇いつつもキカは走りだす。
 時折振り向きながら、木々の合間へ吸い込まれる。


 残されたのは、立ち止まったスマイルと、女だけ。


 ほどなくして追いついた女は、何も言わずスマイルに向かってナイフを振りかぶった。
 それをギリギリのところで避けたスマイルは、追撃をかわすために木の後ろへ回りこんだ。
 木の幹にナイフがかする。

「逃がして庇うつもり?腹立たしい」
「向こうを追ったりしないんだね?」
「近い方を狙っただけ。それにアンタが一番危険だから、先に処分するの。――よく回るその口を恨むがいいわ」
「なるほど、主な狙いは僕か。それは…ありがたいね」

 スマイルが薄く笑うから、女は眉を吊り上げてナイフを構えた。
 そして。

「――っ!?」

 それまで目の前に居たはずのスマイルが、――空気にとけるようにして、消えた。
 文字通りその場から居なくなったのだ。

 そして女は思い至る。
 先程もこんなふうだった、と。

 だから一瞬の間を置いて理解する。
 あの時は小さい妖怪が浮いているように見えたが、ひょっとしてこの妖怪は――、


「ちょっとごめんよ」
 不意にどこからか声がしたかと思うと、女のナイフを持つ右手がバシンと叩かれた。
 その拍子にナイフを取り落とす。

 どす、と音がして地面に突き刺さった。

 それを理解するが早いか、今度は女の右腕が取られてぐいっと捻り上げられる。
 この体勢ではナイフを拾えない。

「っぐ…、何よ、何なのよ…!!」
 おおまかな予想がついているとはいえ、何も無い空間から右腕を掴まれるのは気持ちが悪かった。
 口をついて出た呟きは、そんな心情を如実に表していた。

 それに答えるかのように、何もない空間からするりと『青い妖怪』が現れる。
 まるで空気に色がついたかのように。

 女の予想通り、右腕は妖怪が掴んでいた。

「……!!」
「ねえ、考え直してくれない?でないと僕は必要にかられてキミをどうにかしなきゃならなくなる」
「…さすが妖怪ね。何でもありってわけ」
「……まあ、ね」
「でも嫌よ。考え直したところで私の意思は変わらない。…放してちょうだい」
「そうはいかないね」
「どうせ妖怪なんて討伐されるものなんだから、それが今だって構わないでしょう!!」
「それは人間の都合…というよりキミの都合だよね」

 女はぎりぎりと握り締められる腕に痛みを感じて顔を歪めるが、スマイルはそれを緩めるつもりがない。

「…交渉は決裂かな」
 深い、深い溜息。
 そうして、仕方なく空いた手を女の肩――関節のある箇所へ伸ばした。

 その時だった。

 女は捕まえられていない方の手で素早く自らのスカートの中をまさぐると、脚につけていたホルダーから予備のナイフを抜き取って突き出した。
 その直線上には――女を捕まえている、スマイルの腕。
 咄嗟のことにスマイルは反応しきれず――、

 どすっ、

 鈍い音を立ててナイフが腕に深く突き刺さった。

「――っ!?」
「ナイフが1本だなんて、誰も言ってないわ」

 にんまり、女が笑う。
 そして力任せにナイフを引き抜いて、スマイルの腕から血が噴き出した。

「っ、ぐっ、」
「妖怪でも、血は赤いのね」

 うっとりとしながら、彼女は呟く。
 目を見開き息を詰めるスマイルの手を今度こそ振りほどき、もう一撃、とナイフを構える。
 今まさにスマイルの腹めがけてナイフが突き出されようとしていたその時。


「スマイル!!」


 木の陰から名前を呼ぶ声がした。
 視線を投げる。――キカだった。どうやら少し距離をあけて隠れていたらしい。

 スマイルは眉を寄せて、女がそちらへ気を取られている内に再び透明になった。
 次いで、落ち葉を踏みしめて走る音と一緒に、何もない空間が血の跡を地面に点々と残し遠ざかる。
 それはキカの居る方向とは全く別の方向へ向かっていた。


「――逃げられると思わないで!」
 女が駆ける。血のしたたる方へ。

 隠れていたキカは、その様子を見て動揺する。
 スマイルには逃げろと言われた。女に追いつかれても駄目だ。
 けれど、今一人で逃げてしまえばスマイルを見捨ててしまう気がしてとどまっていた。
 スマイルは怪我もしていた。女もそっちを追っている。

 ならば今は――どうするべきなのだろう、と。

 血が点々と地面を濡らしつつ去る。
 女は確実にそれを追って走る。

「……っ、」
 キカはうんと悩んで、――それらを追うことにした。

 地面に突き刺さっていたナイフを、持って。


 *


「……っは…、…何で……」
 キカ。
 逃げろと言ったのに。

 自分だって死ぬつもりはない。
 けれど危険を冒すのであれば、人間よりはだいぶん生きている自分の方がいいだろうと思った。

 …違う。キカを危険に晒したくなかった。

 ただただ、彼女をこれ以上災難の渦中に置きたくなかった。
 最悪一人ででも逃げてほしかった。


 ぽたぽたと血が落ちる。
 こんな風に怪我をしたのはいつ以来だろうか。
 止血しないのは、縛るものがないのもそうだが、女をこちらへ誘導する意味もあった。
 何も目印がなければ、きっとキカの方へ向かうだろう。

 そして、読み通り女はこちらを追ってきていた。

 キカはあの場からは去ることができずにいたが、こちらが移動してしまえばきっと諦めてくれるはずだ。――そう、信じたかった。

 今度は何も抱えていない分、さっきとは違って身軽だ。
 簡単には追いつかれてやらない。

 うまく時間を稼いで、適当なところで女を撒いて、それから……。

「…痛い、…なぁ……」
 痛みに強いわけでも何でもないスマイルには、腕の痛みは拷問に等しかった。
 それでも、走る。


 追ってきている女が、中々追いつけずに苛々しているのを感じ取る。
 このまま向こうが先に疲れきってしまえばいいのだが―――、


「いつまで、もつかしら。いつまでだって、追いかけてあげるけど」
 息を切らしながら女は言う。
 死に物狂いなのはあちらも同じだ。
 そう簡単に諦めてはくれない。

 寧ろ怪我をしている分こちらが不利だった。

「っ……、」
 刺された腕を抱えて、ひた走る。

 けれど。

「!?」
 傷の痛みに意識を取られて、出っ張った木の根に気づかなかった。
 予想外のところで躓いて、スマイルは何の受け身も取れないままにどさりと倒れこんだ。
 無論それが聞こえていない女ではない。

「あら…、どうやら運も尽きたみたいね?」

 歩調を緩め、派手に音を立てた方へゆらゆらと死神のように近づいてゆく。
 それに対してスマイルは傷の痛みと倒れこんだ衝撃で頭がぐらぐらしていて幾ばくかもがくだけに終わった。

 スマイルの姿は依然として見えない。
 ならば――居そうな所に何度でも突き立てればいいと、血に染まったナイフをくるりと突き刺しやすいように持った。

 女の影がスマイルにかかる。
 ナイフが木漏れ日にきらめく。


 ―――それと同時に、女の頭上から声が上がった。


「スマイルを、かえしてっ!!」
 聞き覚えのある声にスマイルが反応するより早く、木の上から人の影らしきものが落ちてきて、間もなく女と激突した。
 女はそのまま真横に倒れて、全身を打ち息を詰める。

「キ…カ?」
「スマイル!!」
 かすれた声にキカが反応する。
 けれど見えるのは地面に広がる血だけ。
 キカは恐らくそこにスマイルが居るのだろうと見当をつけた。

 …血。大量の血。
 それは、『おかーさん』が吐いたものと同じ色だった。
 命を終わらせる色。

「スマイル、」
「キカ、何で、ここに…っ」
「だって…だって」
 それ以上言葉を繋げられないキカは、何も悪いことはしていないはずなのに罪悪感にかられた。

 キカだってスマイルが自分を庇ったことなど分かっていた。
 だからこちらに来てはいけないのだということも。

 それでも、このままスマイルを置いていっては見捨てるのと同じだ。
 だからどうしてもついて行きたかった。

 ならばと、普段木の実を取っている時の要領で木に登り、鬱蒼と生い茂っている枝伝いに二人を(スマイルは見えないので、正確には女を)追っていた。
 少なくとも女は木登りなんて出来そうにない。それなら安全な道はここだろう、と。
 キカとしては、毎日毎日やっていたことだ。特に難はなかった。

 木から飛び降りたその勢いで、女を地面に倒すのは容易だった。

「…えっと。ごめん、なさい。だって、」

 スマイルにつたない言葉で言い訳をする、その前に横倒しになった女が動いた。

「――っ、このっ!!」
 女は修羅のような形相でキカを跳ね除けようとしたが、全力でしがみつくキカは簡単には退かなかった。
 引き剥がそうとする女と、必死になって抵抗するキカ。
 二人が地面でぐちゃぐちゃに揉み合う。
 その過程で、キカがナイフを持っている事に気づき更に女は激しく暴れる。

「っ…やっ、」
「…っ!!」

 揉み合うと同時に何度もキカを刺してしまおうと試みるも、腕に組み付かれたり小さな手で地面へ押しつけようとしたりで上手く行かず。
 平均よりずっと軽いキカといえど、誰かに抑えこまれたこともない女には立派な障害となり得た。

 一方で、キカはナイフを持っているというのに女を傷つけようとしていない。
 …というよりは、どう扱っていいか戸惑っているようだった。

「…キカ。ナイフを僕に渡して、逃げて」
 ずるり。引きずるような音がした。スマイルが身を起こしているのだろう。
 ぽたぽたと血が滴り落ちる。

「やだ!スマイルと一緒がいい!!」
「――キカ」
「いやぁ!!」

 駄々っ子のようになっているキカは、女からしてみれば隙だらけだった。
 それを見逃さず、女は全身の力を最大限に使ってぐるんと体の位置を変える。

「――っきゃ、」
 あっという間にキカは地面に押さえつけられ、女がそれを見下ろした。
 丁度キカの肩を掴んで女が馬乗りになっているような具合だった。

 ――最高の、チャンス。
 何も青い妖怪にこだわらずとも、確実な方から仕留めればいい。

「折角捕まえたから、こっちから処分してあげる」
 ぜえぜえと息を切らし、目はぎらついていた。
 ナイフの切っ先が獲物を捉える。
 少女の形をした妖怪は、これ以上見開けないくらいに目を大きくした。
 その瞳に、女と、木々と、ナイフが映り込む。


 ――キカは、以前受けた仕打ちを――、町を追われた日を、町人に囲まれた日を、大人たちの目を、その罵声を、母が死んだその時を、思い出した。
 一瞬の内に流れていったそれらの景色と、すぐそこにあるぎらついた目が重なる。

 本当は、心の底から怖かった、景色。


 キカはそれらに抗おうとして、無意識に体を動かした。
 まるで自らを庇うように。


「ぃ―――やああああぁ!!」

 地面との間に嫌な摩擦が生じるのも構わず、キカは腕を振った。
 そう、全力で。―――ナイフを持った、右腕を。


「――っ!!!」
 瞬間、女は声にならない声で叫びを上げ、体を捩り、キカの肩を掴んでいた手で地面をがりがりと掻いた。
 もう片方の手で両目を覆って、尚も叫び続ける。

「ぁっ…、いや、ひっ……―――!!」


 ナイフは、女の両目を薙いでいた。
 目の近辺も一緒に裂かれていたのだろう、血がぼたぼたとこぼれてキカの体に降りかかる。

「あ…、あ」
 自分がやったことに、キカは動揺を隠せずにいた。
 持っていたナイフが、彼女の両目を。――視力を。


「キカ。今なら逃げられる。…何も考えないで、走って」
 いつの間にか姿を表していたスマイルが、女の下からキカを引っ張り出した。
 両腕を掴んで、ずるりと。
 その拍子にキカはナイフを落とすが、構っていられる余裕はなかった。

 スマイルがキカの手を握って走りだす―――その瞬間。

「っあ……ああああぁぁぁ!!」
 呪いのような叫びと、繰り出した女の手。
 その手は偶然捉えたキカの服を引き裂かんばかりに強く握り締め、地獄に引きずり込むかのように力いっぱい引っ張った。
 その拍子にキカは背中から地面に叩きつけられ、鈍く咳き込む。

 そしてスマイルが一連の動作で離れてしまったその手をもう一度掴もうと動く、それが届く直前に。


「――っ、ぐ、が、」


 女の持っていたナイフがキカの腹に深々と突き刺さった。
 持てる力全部を使って引っ張り抜き、再び、みたび、勢いのまま同じ箇所を穿つ。

「――キカ!!」
「このまま死んでなるもんですか。このまま死んでなるもんですか。このまま―――っ」
 呪詛のようにぶつぶつと呟いている女は、傷のついた目を見開いて、枯れ木のような少女の体を次々と穿った。
 返り血でその顔が赤く色づくまでに、何秒もかからなかった。

 スマイルが思い切り体当りして女を無理矢理どかせるも、そこに横たわっていたのは血にまみれた少女が一人。

「キカ!キカ!!」
「ぃ、…たい……、スマイ、ル」

 未だ低く呻く女を一瞥して、スマイルはキカを丁寧に、しかし素早く横抱きにして、腕の痛みに耐えながら持ち上げた。
 なるべく彼女に負担がかからないように。

 女は両目を覆って言葉にならない声で二人を呪う。
 だからスマイルはキカを抱きかかえて、足音をたてないように逃げ出した。

 早く、早く遠くへ。
 手当てを―――と考える傍から流れ出る血に、考えたくないことは今は考えないでおこうと、必死に逃げた。



 早く。
 ここではないどこかへ。





 ―つづきます―






**後書き**

もしかしたら、書き換える前に読まれた方がいらっしゃったかもしれませんが。
…実は一度UPした後に何だか納得いかなくてUPし直してしまいました(笑
なぜでしょうね、何となくしっくりこなかったのです。
とはいっても上げ直しにかかった時間は1日以内な程度なのですが。

さて、終わりが近くなって参りました。
皆どこかしら血まみれです…
大体あと3話くらいで終わるかなというところなのですが、毎度毎度私の予測はあてになりませんねえ。(←延長常習犯
というわけで多めに見積もって5話くらいで終わるんじゃないかと。
な、無いとは思うんですけどね!