「あら、珍しい。今日は休みかい?」
「ええ。今の内に買い溜めしておかないと」
「そうかい。じゃあ野菜はどう?安くしとくよ」
「ありがとう、買っていくわ」
 そんな会話をしながら、店に並ぶ野菜からいくつか選んでいく若い女。
 彼女は穏やかな表情をしながら、けれど内心では決して穏やかとは言えない事を考えていた。

 時間は、もう少し。
 出来るだけ人と会って、自分が町に居る事を町の誰かに印象付けて。

 彼女の同棲相手は、用意を済ませ次第「例の妖怪」を偵察しに行く手筈だ。
 彼と、もう二人。猟師と鍛冶屋で、体力のある町の者。
 合計三名、少数精鋭で身動きをしやすく、且つ既に「青い妖怪」を見ている彼を連れて行く事で確認を取りやすく。
 それが、会議で決まった事。

 ならば、と女は思う。
 自分が取れる最善の行動は。

 筋道を立てていくつかのケースを考えながら、大きく決断するように頷く。
 暗い光を、その瞳の奥に湛えて。


 店の主は彼女が頷いたのを見て女が何を買うのか決めたのだと思ったらしく、「今日は随分真剣に選ぶんだねぇ」と笑いながら言った。
 女は何でもないように「ええ」と笑った。

「じゃあこれとこれと、これ」
「はいよ。……ああ、それとアンタ」
「?」
「旦那の方のアレ…解決したのかい?」

 偵察の事や妖怪の事は今の所普通の町人には表明されていない。
 だからこれは、別の事。
 女はすぐに思い当たった。

「…まぁ、そこそこ」
「まったく、こんな綺麗な奥さんがいるのに何してるんだか。今度会ったらアタシからもきつーく言っとくよ」
「気が早いわよ、まだ奥さんじゃないわ。それに、最近は凄くましになったのよ?」
「そうかい?でも婚約者を前にして夜遊びなんて…困ったらいつでも相談に来るんだよ。とっちめてやるんだから」
「ふふ、ありがとう」

 女は笑いながら紙袋を受け取って、代金を支払う。
 店の主がお釣りを渡しながら「絶対よ!」と念を押した。

 気のいい女主人。
 若い女はそこにほっと息をつきながらも、心の奥底に潜む濁った気持ちをかき消す事はなかった。

 再確認した。
 ――ましになどなっていない、同棲相手の所業を。

 思い描いた彼の顔が、心の中に黒い泥を落としてゆく。
 どろり、酷く重く、暗い色。


「じゃあ、またね」
「あいよ。いつもありがとうね」

 微笑みで返して、女は次の店へ歩き去った。
 今度はどの店に寄っておこうか。

 妖怪の事についての表明は、偵察隊が帰って来てすぐに行われる予定だ。
 混乱も警戒も無い今の状況なら、町の人々と普段通りに会話する事も、――ひいては、自分がここに居る事を認識させるのも、簡単だ。


 女は目を細めて笑い、軽い足取りで次にどの店へ行くのか決めた。
 豪快な笑い方で、男なのに話好きな、肉屋の方へ。






 −┼―――−- last promise _06 -−―――┼− 







 見つけて、観察して、帰ってくる。
 決して攻撃はしない。
 どんな性質のものなのかを、遠くから見極める作業のみ。

 それが、町長から言い渡された偵察の内容だった。

 男はそれでも一矢報いようと考えていたが、この人数だと聞かされてようやく諦めた。
 何しろ自分を含めてたったの三名。
 しくじった時は即刻命に関わるだろう。

 自分に攻撃してきた妖怪に対して何もできない事に舌打ちをしたい気分だったが、偵察を降りる気はなかった。
 妖怪へ仕返しをするための足がかりとなるのならそれで良かったし、この偵察の次こそは堂々と妖怪を討てるのだろう。
 適当にこじつけて危険分子とみなしてしまえば可能だと思った。
 元々町にとって脅威なのだ、悪い事でもない。寧ろ善行だ。

 男はどう転んでも妖怪を危険だと報告するつもりだった。


 若い男と、猟師と、鍛冶屋。
 彼らは最低限の身軽な装備で、森の中を黙々と進んでいた。

 少女の姿をした妖怪と一緒に居たという事から、その住処へ。
 職業柄、森を歩き回っている猟師なら、場所を把握していた。
 時々町長に頼まれて小さい妖怪を遠巻きに監視もしていたらしい。

 きっと、凶暴なはずだ。
 こじつける必要も無いかもしれない。

 男はそう思いながら、歩く。


 もしもの時に備えた、ナイフの存在をその手に確かめて。



 ***



「おにーいーちゃーん!」
 元気な声が家の外に響き渡った。
 スマイルはぎょっとして家の出入り口を振り返る。

「キカ、出来れば今まで通り呼んでくれないかなぁ…」
「えー?なんでー?スマイル、おにーちゃんになるんだよね?」
「うーんと。あくまでそういう存在っていうか……まぁ、呼ばれ慣れないから、お願い」
「そっかぁ。んじゃ、スマイルー」
 ヒヒヒと笑いながらそんな風に呼び直す彼女に、スマイルは苦笑した。
 心のどこかがくすぐったくて仕方がなかったから、『お兄ちゃん』は勘弁してほしい。

「ねぇねぇ、見て見てー」
「んー?」
 スマイルは早朝採ってきたキノコを焼きながら、キカが広げた物を見る。
 真っ青な、空の色。

「服になったよ!」

 時々スマイルが形を直し、キカが布の形に合わせて縫っていったそれは、ごく簡単な造りではあるもののワンピースの形を成していた。
 母親の作業を傍で見ていて、服というものは裏から縫い合わせてひっくり返すのだという知識くらいはあったらしく、それなりに仕上がったように見える。
 サイズも予備の白い服を参考にしていたから、着られない事もないのだろう。
 少し縫い目は不格好だけれど、それも彼女らしいといえば彼女らしかった。

「おー、凄いじゃん。でも結局、明け方からずっと縫ってたんだねぇ」
「うんー。ねぇ、これもう着られるかなぁ!」
「ヒヒヒ、いいんじゃない?着てみなよ」
「はーい!!」
 大きく片手を上げて、それから今着ている白い服を捲り上げようとして……はたと止まる。

「家の中で着替えるんだっけー」
「そうそう。行ってらっしゃい」
「いってきまーすっ」

 バタバタと出てきた彼女は、またバタバタと入っていった。
 スマイルは、一人「ヒヒ」と笑う。
 もう随分、染みついてきた笑い方だった。

 そうして間もなく、バタンと扉が開いてキカが再び出てきた。
 その身に纏っているのは、空色のワンピース。

「どうかなー!」
「おー、着てみると違和感無いね。似合ってるよ」
「やったー!!」

 くるくるくる。
 彼女が回ると、青い花びらが舞っているようだった。
 一緒に乱れ舞う伸び放題の髪は、花びらと呼ぶには随分ごわごわしていたけれど。

「うーんー、きごこちは、白い方がいいんだけどー。スマイルの色の服、出来たー!」
 駆け寄ってきてギザギザの歯を見せながら笑う。
 スマイルはキカが焚火に突っ込まないようにごく自然に制しながら、僕色かぁ、と心の中で呟く。
 それって何だか変な色をしていそうだけど、キカにとっては嬉しい色なのかなぁ、と。

 だからスマイルもにーっと笑って、彼女のがさついた髪を撫でた。
 ヒヒッ、と照れたような声が上がる。

「約束にちょっと、近付いたかな!」
「ヒヒヒ、そうだねー」
 二人して、笑う。

 キカはスマイルの傍でごろんと腹ばいになった。
 完成したばかりの服を汚す事に躊躇は無いらしい。


「ねーねースマイルー」
「んー?なぁにー」
 焼けたキノコを木の串ごと大きな葉っぱに乗せながら、問い返す。
 キカは思いついたものをそのまま言う体で、言葉を続けた。

「スマイルは、いつか旅にもどるのー?」
「――…」

 その言葉に、スマイルは思考も手の動きも停止する。
 ――今の今まで、考えていなかったからだ。

 気付けば頭の中にあったのは今日キカと何をするか、二人分の食料をどう確保しようか、町に買いに行こうか、でもその間キカは一人だなぁなんて事ばかり。
 いつまでもここに居るつもりはなかったものの、出て行く事など考えてもみなかった。

「……、多分ねー?」
「たぶんー?」
「まぁ、まだ当分行くつもりは無いよ」
「…でも、行くの?」
「んー。……うん」

 嘘をつく事は、したくなかった。
 結果、キカが歪んだ顔を少し動かして悲しそうにしても。

 嘘をついて突然いなくなったりするのと、正直に言う事。
 キカはどちらかというと前者の方が傷つきそうだったから。

「僕もキカとの約束を果たす為に、沢山の人に音楽を聞いて貰う。だから、いつかは旅に出る」
「…うんー」
「でももう少しキカの裁縫が上達するまで、ここに居るよ。僕はそんなに上手くないけど、キカに教えられる事全部、教えるまで」
「……そっかぁ」

 呟いて、それからスマイルの方へ顔を上げる。

「スマイルも妖怪だから、寂しくないもんねー?」
「………、キカは、」

 いけない、と。
 本当は思うのに。


「寂しくないの?」


 そんな事を、尋ねた。
 聞けばきっと、心が彼女から離れられない。


「……知らないよ?」


 そっと返された言葉が彼女らしい素直さを持っていなかったから、スマイルはやはり後悔した。
 彼女の精一杯の強がり。
 寂しいと縋ることなく、けれど寂しくなどないと嘘をつくこともなく。

 ――妖怪だから、大丈夫。
 そんな風に笑って言うのではないかと、心のどこかで思っていた自分に…無性に腹が立った。
 馬鹿じゃないのか。……彼女は、まだ幼い子供だ。

 どちらの為にもならない質問をした事に心の中だけで溜息をついて、しかしそれは顔に出さずスマイルはキカの頭を撫でた。
 でこぼこ、不思議な形。

「まだ、先の話だよ」
「………、うん」

 心を無理矢理置いてくるような頷き方に、スマイルはちらりと思う。
 ―― 一人にするくらいなら、旅に連れていく方が、


 パチリ。
 思考を遮るように薪が爆ぜて、はっと思考が浮上する。
 あやうく残りのキノコを焦がす所だった。

「危ない危ない…折角採ったんだから、焦がすのは勿体ないよね」
「いい匂いねー」
「ん。もう焼けてるから食べよっか」
「はーい」

 その時には既にキカの様子が戻っていたから、スマイルはほうっと溜息をついた。



 ***



 妖怪の住処の、程近く。
 物音がする場所を木の陰からそっと覗きこめば、何者かの姿が見え隠れしていた。

 それは小さな少女の姿をした――けれど歪な形の顔を持つ妖怪。
 三人は息を呑んで、様子を窺った。
 こちらに気付いては、いない。

「小さい方は、居たな」
 猟師は定期的に見ているだけあってやや落ち着いている。
 声を潜め息を殺して、注意深く観察していた。

「青い奴は……どこだ、見えるか?」
 鍛冶屋の男はピンと張りつめた様子で、気付いて近づいてくれば叩き斬るつもりなのか、持ってきていた大ぶりのナイフの柄を握りながら問う。
 決して引け腰でない事からすると、もしそういった事態になれば躊躇も無いのだろう。

 その隣で若い男は目を凝らすが、青い妖怪の姿を見てとれない。

「……別行動でもしてやがるのか…?」
「…少し近付くか」
「あまり近寄っても気付かれる可能性がある。俺についてこい」
 獲物に気付かれないよう移動する術を持つ猟師の指示を聞きながら、動く。
 事実上のまとめ役は彼だった。

 時刻は昼前。
 そこに居る妖怪が浴びている木漏れ日もあれば、反対に濃い影を落とす場所もある。
 それに潜んで、近付いた。


「――っ」
 進む途中で、びくりと猟師の肩が跳ねあがる。
 そして不意にその右手が他の二人を制止させた。

 木の陰、茂みの中。
 息を殺したまま、二人の視線が猟師に注がれる。
 その様子は――手に取るように分かる程、緊張していた。

 じり、と地面と靴が擦れ合う音も焦燥を掻き立てるような中で、猟師と若い男は顔を見合わせる。

 やがて猟師の視線を追って、二人は木の陰から恐る恐る顔を出した。
 そうして…その両方が、音を立てずに続けていた呼吸を無意識に止めた。
 …詰めた、と言った方が正しいかもしれない。

 そこに居たのは――まさしく男が言っていた妖怪そのもの。

 青い髪、青い肌、身の丈は鍛冶屋の男より少し低いくらいだろうか。
 今まで死角に居たらしく、木と木の隙間からするりと姿を現したその異形は、小さな妖怪の手を取ってゆっくりと歩き始めた。
 片腕に抱えているのは、乾いた枝らしきもの。…薪、のように見える。
 そういえば小さい方の妖怪もそんなものを持っている。


 無意識に、誰かの喉がこくりと鳴った。
 誰も、動けない。
 それだけ極度の緊張感の中にあった。

 間違いなく、青い妖怪は、居た。
 疑ってかかっていたわけではないが、実物を見るまでは猟師も鍛冶屋の男も僅かばかり余裕があったというのに。

「――あいつで間違い、ないな?」
 乾いて張り付いた喉で一番最初に確認したのは、やはり猟師だった。
 環境や状況に少しでも慣れているからだろう。
 しかしその表情は青ざめている。

 若い男は言葉で返す代わりに、二・三度頷いた。
 肯定。それを見て猟師と鍛冶屋の男は確信にまで落としこむ。

「…じゃあ、追うしかねえだろう」
 持ち前のタフさで気持ちを切り替えたらしい鍛冶屋の男がそう言って、猟師の指示を仰ぐように視線を遣った。
 猟師は、幾分か普段の表情に戻って「そうだな」と返した。

 若い男だけは少々及び腰だったものの、それでも全員が青い妖怪を追って忍び歩く。

 どうやら妖怪達は一旦住処まで戻るらしく、青い妖怪ができるだけ歩きやすい所を選びながら小さい妖怪の手を引いた。
 小さい妖怪は繋いだ手も枝を持った手も大袈裟に振りながら歩く。

 距離を開いてそれを追った。

 青い妖怪は、体格で言うなら鍛冶屋の男の方が勝っている。
 というより、ひょっとすればその隣に居る若い男よりも細いかもしれなかった。
 けれど、随分と遠くにある隣町から聞いた話では、例え人間に近い姿をしていても空を飛んだり、火を操ったり、獣に化けたりするそうだ。
 そんなものを仕留める方法は――知識に無い。

 猟師と鍛冶屋の男は、町長の言う通りどんな性質のものなのかを見極めるために行動しているが……ただ一人、若い男だけはその青い妖怪の弱点を探るつもりでいた。
 どうせ殺すのだから、今から探ってもいいだろう。そんな心持ちで。

 どこまでも、町人の中で妖怪は害悪だった。
 おとぎ話で言うなら、トロルやクラーケン。人を食うものだ。
 居ない方がいいに、決まっていた。


 妖怪達はそれを知らず、どこか穏やかとも言える様子で森を抜けた。
 少し、開けた場所。妖怪の住処だ。

 そこに着くと、小さい方の妖怪は手を放して駆けだした。
 家の様なものへ向かって。

 人間に似た何かが、人間の家に似たものに住んでいる。
 それはとても――薄気味悪い光景だった。
 例えて言うのなら、獣が突然人語を喋るような。何とも言い難い、不気味さ。


 小さい方の妖怪は家の様なものの前で止まって、しゃがみ込む。
 持っていた枝を地面に下ろしたようだった。

 ゆっくり歩いてそこに近付いた青い妖怪も、片腕に抱えていた枝を下ろす。
 そうして何事か言葉を交わし、不気味な笑い声で笑った。


 何か凶暴そうな所は無いか。
 恐ろしい力は持っていないか。
 三人の人間は、彼らを注視する。

 視線の先で青い妖怪が家の中に入り、何か大きめの器をもって出てきた。
 地面に腰を下ろした彼に倣って、小さい妖怪もぺたんと地面に座る。

 青い妖怪は器の中から何かを取り出し、先程持ってきた枝の中から細い物を見つくろって、器用に刺していった。
 よくよく見れば、魚…のようだった。


「…何だかよ、人間じみてんな」
 魚を枝に刺している様子を見て、恐らく焼いて食べるのだろうと想像がついた所で、鍛冶屋の男は毒気を抜かれたようにそう呟いた。
 食事をするにしても、想像していたものとは全く違ったからだ。

 けれど良いイメージへ持って行く事をよしとしない若い男が、「油断するな」と注意した。

「俺は奴らのせいで気絶してたんだ。見つかれば攻撃されるのは間違いない」
「そうだな、気を緩めない方がいい」
 猟師がそれに頷いた事で、男は仲間を得たとばかりに自信を持って鍛冶屋の男を見た。

 鍛冶屋の男は考えを改めたのか、元のように気を引き締めた表情に戻る。

「しかし、ひとまず空を飛ぶようにも特別身体能力が優れているようにも見えないな」
 冷静に分析する猟師の視線の先には、やはり青い妖怪。
 小さい妖怪が、まるで子供がはしゃぐようにして青い妖怪の首に飛びついて、支えきれなかったのか危うくひっくり返る所だった。
 串に刺した魚を何とか地面に落とさず死守したようで、ほっとしている。
 そんな様子からは人間離れした動きを出来るとはとても思えない。

「仲間内だからそんな動きする必要もねぇんじゃねえのか」
「そうかもしれないな」
「もうしばらく様子を見ようぜ」

 三人全員が頷く。
 そして、妖怪が魚を枝に刺して、人間がするのと同じように火を起こして、魚を焼き始めるのを見た。
 小さい方の妖怪が不可解な動き…くるくると回っているのを最初は警戒していたが、何も異変が起きないので、注意しながらも青い妖怪へ視線を戻す。
 浅い籠の中から木の実を取り出して点検しているようだった。
 町の者なら知っているが、人間が食べても害の無いものばかり。

「なぁ、丸っきり食事風景なんだが…」
「そうだな。まぁ…小さい方が木の実を食うのは知ってたが、青い方もそうなのか」
「外見はアレだが…食事は似てるって事か。じゃあ、小さい方と同じように今まで通り放っといても問題ねぇのか?」
 人間しか食わないわけじゃねぇみてえだし、と鍛冶屋の男が肩を竦めて言う。
 状況のせいか、猟師も鍛冶屋の男も肩の力が抜けているらしい。

 しかし納得のいかない様子で若い男は言う。

「小さい方だけだった時は、お前みたいな猟師が森に入っても攻撃してくる事は無かっただろ。今はどうだ、俺が証人だぞ」
「……確かに森に迂闊に入れないとあっちゃ、猟師の俺は商売あがったりなんだが。それでもお前、死にやしなかったんだろう」
「危険なのには違いねぇ。それともあれか、お前のカミさんが殴り倒されても同じ事言えるのか?」
「……」
 黙り込んでしまった猟師に、ほらみろ、と若い男は鼻息を荒くする。
 その様子を見ていた鍛冶屋の男は、短い髭をいじりながら提案した。

「何なら、今の内にぱぱっとやっちまうか?油断してやがるし、今なら何とかなりそうな気がするが」
「それはいくら何でも危険過ぎやしないか!?身軽に動く事重視で武器もナイフだけじゃないか」
「怖いなら早めに芽を潰せばいい。見た感じ、いけそうだぞ」
「…だが、町長の命令は」
「成功すりゃ不安も消える」

「俺は賛成だぞ」
 鍛冶屋の男の提案に、若い男はにやりと笑みを浮かべながらそう言った。

「昏倒させやがった当の本人が目の前に居るんだ、何もせず帰ってくるのは癪だと思ってた所だったんだよ。やるなら俺も行くぜ」
「おう、あんなのんびりしたひょろっこいの、二人も居れば仕留められるだろうぜ?」
「お前らいい加減に―――」

 猟師が二人を諌めようとした、その時だった。

 三人が視線を外しかけていた相手――それまで何ら不自然な動きを見せなかった青い妖怪が、顔を上げる。


 その瞬間だけ、時が止まったかのようだった。


 紅玉の瞳、その燃えるような色。
 人の持ちえない、血の赤。

 ぞっとするほど美しく、――…そして恐ろしい。
 異形の名を冠するにふさわしいその目で、三人の男が居る方向を射抜いた。

 ガラスの様に無機物めいたその瞳が、意思を持ってこちらを向く。
 男達は全ての動作を止め凍りついた。

 背筋を、言い知れない恐怖が這い上がる。


 ――まずい。
 本能的に思った彼らは、けれど後退する事も出来ず身を竦ませた。
 この場ですぐに動いてしまえば……一瞬にして全てが終わってしまいそうな、そんな気がした。

 じりじりと身を焦がすような時間が過ぎる。
 恐らく本当の時間としては数秒間。
 それでも数分…いや、十分以上の長さに感じられた。

 そして。


「どうしたの?」


 不意に小さい妖怪が、青い妖怪の服を掴んだ。
 それによって赤の視線はふっと下を向く。

 視線が、外れた。

 どわっと汗が噴出するのを感じながら、男達はその隙を見逃さないとばかりに身を翻した。
 全速力で、それでも足音を出来るだけ殺して。
 早く、あの視線をもう向けられることのない場所へ―――。

 木を避けて、土を蹴り、茂みを迂回して。
 息切れを気にせず遠く遠くへ。


 そうして、一番最初に若い男の足が限界を迎え、つんのめりそうになりながら足を止める。
 それを見た他の二人も、ぜえぜえと息を切らしながら少し先で止まった。
 どうやら妖怪が追ってくる気配も無い。

 そもそもこちらと直接目が合ったというよりは、探るような視線だった。
 町の人間が居る事に気付いた、ではなく、何かの存在に勘付いたとでもいうべきか。
 人間だとばれなければ恐らく何とかなるだろう。

「……結局逃げてきたなぁ。ま、これが本来の役割といえばそうだが」
「やれると思ったが…何だあの目は。やっぱ妖怪は妖怪か」
 肩で息をしながら、会話をする事で何とか落ち着こうとする二人。
 その少し後ろで若い男は、歯噛みした。

「…チッ、何だよ、睨まれただけじゃねぇか……。あのまま突っ込めば押しきれたかもしれねぇのによ」
「じゃあお前だけ逃げなけりゃ良かっただろうが。危険を危険として判断出来んのなら、俺らは置いてくだけだ」
「あ?何とかなりそうだって言いだしたのはてめぇだろ!?」
「寸前まではな。警戒されちまったら無理だ。お前はもっと柔軟に対応しろ」
「んだと……」

 すっかり喧嘩腰になってしまった男二人に、猟師が「まぁまぁ」と割って入る。

「言い合ってる場合じゃないだろう。今日は警戒されてしまったから、これ以上の偵察は無理として…報告に戻るか」
「……。…っつったってよ。成果はほぼ無しだぞ」
 仲裁にすんなりと応じた鍛冶屋の男は、腕を組んで唸る。
 もう既にほとんど息は整っているようだ。
 若い男の方は話の腰を折られたようで不機嫌そうに眉を寄せて黙った。

「まぁ、そうだな。凶暴かどうか、討伐するべきか、討伐するとしたら可能なのか。どれも分からずじまい。見た所小さい方と同じ雰囲気を感じたけど、最後の事を考えると…どうだろうな。討伐が可能かどうかも、化け物としての力があるのかどうか次第だが…特に見受けられなかった」
「短時間だったからな。俺にもあいつの食事風景くらいしか分からなかった。だが一つだけ報告するに値する事が出来たじゃあねぇか?」
「ん?…何だ?」
「確実に青いのが『居た』って事だな」
「確かに。その事実は大きいだろうな」

 居るのか居ないのか分からず議論をしていた所からすると大きな進歩だ。
 それに付け加えて例の『青い妖怪』の姿形と、油断をすれば拍子抜けしてしまいそうな程人間に近い行動を起こすという事を全て報告すれば…どちらかといえば攻撃派が動きそうな予感がした。
 保守派は妖怪の未知の部分に渋るだろうが、実害が出ている事と思っていたより倒せる可能性がありそうな事。これらを加味するのなら、押し切られるのも時間の問題だ。

 妖怪を倒せば事は収束するのだ。
 今までずっと引きずっていた『小さい妖怪』の事も一挙に解決するのなら、それはそれで良いのではないだろうか。
 寧ろ村の問題が無くなるのなら攻撃派に賛成したい気分だった。
 例え今回知り得なかった何らかの力を持っていたとしても、戦略次第で何とか最小限の被害で済むかもしれない。

 不安なまま放置するよりは、多少の危険を伴っても取り去った方がいい。
 この偵察での成果は、恐らくそこなのだろう。


「さてと。…じゃあ、まずは道に出るぞ」
「おう」
「……」
 道、といっても人が何度も通る事で出来た通り道の事だ。
 妖怪が森に住み着くようになる前はそこそこ頻繁に使われていて、今は猟師が使っている。
 比較的歩きやすくなっていて、そこを辿れば町に着く。

 若い男は相変わらず無言だったが、二人が進めば大人しくついてきた。
 地理に詳しい猟師が、道なき道から通り道へと案内する。


 しばらく、歩いた。
 明らかに人の通りやすくなっているような場所に出て、猟師は辺りを見回す。
 ここから町へは、もうすぐだった。

「もう一息。疲れてないか?」
「仕事に比べりゃ歩いてるだけだ、何ともねぇよ」
「……」
 相変わらず喋らない男へ、確認するように目を遣れば、「別に」と返事があった。
 そんな口が叩けるのなら大丈夫だろうと、残る二人は顔を見合わせ肩を竦めた。

 元々こういった強情な…というより偏屈な所がある男だ。
 気に入らないものは、とことんまで認めない。自分の思うようになれば、とことんまで熱中する。
 こういった面の裏で、仕事に関しては真面目なのだから町の男達からある程度信用はされているのだけれど。
 それでも何かと噂の絶えない男だった。

「まぁなんだ、早く帰って嫁さん安心させてやんな」
「……嫁なんて、俺はそんなつもりじゃねぇよ」
「何言ってんだ、婚約してんだろ?」
「まぁ、都合上な」
「あんないい女捕まえといて、それかよ。行きしなにも心配してたの見たぞ」
「…あいつの勝手だ」

 偵察に出発する直前。
 女が駆け寄ってきて、やれ無理はするなだの、早く帰ってきてほしいだの、待ってるだの言っていたのを、男は気怠げに聞き流した。
 そんな事よりも、昨日の夜に遊び歩けなかった仕返しとして妖怪をどう始末するか、今夜誰と酒場を練り歩くか、場の雰囲気に乗じて誰を口説き落とすか。それが男にとって重要な事だった。

 金は無い。が、同棲中の女に要求すれば大抵は何とかなる。
 男にとってはそこでだけ、その女に価値があった。
 たまにヒステリックに問い詰めてくるのは、捻じ伏せればどうとでもなった。

 結婚すれば、自由を奪われる。
 それなら、いっそこのまま婚約者で居続ける方が楽だな、と男はぼんやり思っていた。


「まぁ、お前には関係ねぇだろ」
「そう言われちゃそうだとしか言えねぇよ。ま、大切にしてやんな」
 ひらひらと手を振って鍛冶屋の男が歩きだす。
 猟師が先頭に立って案内を再開した。
 若い男は、舌打ちを一つしてついていく。

 ――そうして、いくばくもしない内に。


「――…あれ、」
 先頭に立っていた猟師が足を止める。
 次いで鍛冶屋の男と若い男が顔を上げ……僅かばかり瞠目した。

 木々の揺れる下、通り道の真ん中に…――ついさっき話に上がったばかりの、婚約者が居たからだ。

 こんな所に居るはずは無いと全員が動揺する。
 けれど、冷静に考えればそうだ、ここは町から比較的近い。
 来るのは不可能ではないが、なぜここに。

 そう思っていると、向こうもこちらに気付いたのか、駆け寄ってきた。

「皆、無事!?」
 軽く息を弾ませ、女は不安げな表情を向けてくる。

「お前、どうして…こんな所に」
「どうしても、心配で。ここら辺までなら大丈夫だろうと思って待ってたの」
 そう言って、若い男――彼女にとっては婚約者の腕をそっと両手で包む。
 …男は、うざったそうにそれを振り払った。

「何だよ…いらねぇよ、そんな心配。そんなに俺が信用ならねぇか」
「そうじゃないんだけど…」
 言い淀んで眉尻を下げる女に、男は本日何度目かの舌打ちをした。

 そんな様子を見かねたのか、猟師が宥めに入る。

「君を思っての行動だろう。まぁ…少し向こう見ずだが。一緒に帰ればいい」
「……」
 男は視線を外して返事をしない。
 けれど女は気にしないとばかりに頷いた。

「じゃ、このまま町に戻るぞ」
「あ……、あの。すみません、ほんの少しだけ…待ってくれませんか」
 背中を向けて歩きだそうとした猟師に、女が声をかける。
 鍛冶屋の男と猟師は不思議そうに彼女を見た。
 すると彼女は、男の腕をもう一度両手でつかまえて、少し言いにくそうに告げる。

「…今すぐ、二人で話したい事があって」
 照れているのか、小声で言った彼女に、二人は顔を見合わせる。
 腕を取られた当の本人は「何を言ってるんだ」とでも言いたそうな顔をした。

 …数瞬の後、妻子持ちの猟師が最も早く順応した。
 少しばかり状況を顧みない彼女の行動だけれど、それも若さというものだろうと。
 笑って二人の背をずいずいと押す。

「そういう事なら、行ってきな。ほぼ無いとは思うが危険だから、早めにな。俺らはあっちの方で待ってる」
「お熱い事で。ここまでする女はそう居ねぇよ」
 鍛冶屋の男が若い男の肩をばしばしと叩き、猟師と一緒に遠ざかっていった。


 残ったのは、若い男とその婚約者。


「………何の用だよ」
 男が苛立たしげに口を開く。
 女は……にっこりと、微笑んだ。






「あいつも、婚約止まりじゃなくさっさと結婚しちまえば却って矯正されるかもなぁ」
「ははは、あの人ならそうかもしれないな」

 男女の姿がかろうじて見えないくらいの位置まで来て、二人は談笑する。
 あの男のあの態度で今まで見捨てなかった彼女なら、などと近い未来を想像した。
 男に関する噂も、きっとそれと共に消えてゆくのだろう、と。

 そんな話をして、話題が尽きて何となく真面目な話へ移る。
 町の今後。妖怪を見てきた事で何が変わるのか。
 恐らく妖怪を討伐する方向に向かうだろうというのは猟師も鍛冶屋の男も同意見だったから、その場合はどう片を付けるのか。
 気付かれる前に仕留めるのなら大人数は却って不利だろう、だとか。


 そうして、真面目な話題も底をつき。


「…あの二人、遅いな?」
「ああ。少し可哀想だが、呼び戻すか」
 これだけあの住処から遠ざかっていれば妖怪と鉢合わせする可能性もほとんど無いだろうが、追って来ていた場合の事もある。
 それにこれ以上ここに居ても、報告が遅れるばかりだ。
 猟師と鍛冶屋の男は、二人を呼び戻す為に仕方なさそうに振り返った。

 ―――と、その時。



「きゃあああああああああああっ」



 絹を裂くような悲鳴が響き渡る。
 ぎょっとした二人が目を見開き、状況を把握するより前に駆け出した。

 その声は、男の婚約者の声で間違いなかった。






 ―続いた―






**後書き**

今回長いです。何でだろう。
ネタを概要から煮詰めていく作業を書きながらやっていましたが、そうすると「ここどうなってんだろう」と違和感を潰す作業が加わり。
…いつの間にか外堀から埋める描写ばかり増えるという。(ドツボ
でもまぁ、なんだか楽しいのでいいです。(キリ

今回書いてて自分で噴いたのは、「おにいちゃん」でした。

しっかし、途中ムサい男集団のシーンがありましたが。
…名前をあえてつけていないので表記がややこしかったですかね?
多分これ以降こんなシーンが無いので適当に流してやって下さい☆(ヲイコラ

書きためていた文章はここまで。
大体組み立ててありますが、書いてる本人にもどうなることやら。