「…大丈夫、気絶してるだけ。ちゃんと生きてるよ」
「そっ、かー」
 ほっとしたように胸をなでおろすキカを一瞥して、スマイルは水浸しになった男を尚もよく観察する。
 川岸に引き上げられた男は、目を閉じたままぴくりともしない。…それでも、息はしているようだ。

「多分、町の人だと思うけど」

 それならなぜ、川を流れてなんてきたのだろうか。
 気絶までして。

 なんにせよ、この男がこのままここで目覚めてしまえば不穏な事態になりそうだった。

 かといって、町まで送り届けてしまうのも気が引けた。
 仮に自分が透明化するか、もしくはキカ流に言うと『服に隠れて』男を運んでいったとして、森から突然気絶した男が運び込まれれば、騒然とするだろう。
 森から出てきたというだけで、本当の原因を差し置いて根も葉もない噂だってたつかもしれない。
 あれだけキカを敵視していた町の住民のこと、不安の種があればどうなるのかなんて想像に難くなかった。

 ならば。

「キカ、日当たりのいい場所に寝かせておこう」

 極力、関わらないようにするのが一番。
 だから男がこちらの存在に気付かない内にどこかへ寝かせておいて、自分の足で帰ってくれるのが最良の手なのだろう。
 幸いにも、目立った外傷は無い。
 これ以上体を冷やさなければ何とかなるだろう。

 ところが。

「え、えー。ほっとくの?町にもどしてあげないの?」
 不満そうにこちらを見つめてくる大きな(正しくはぎょろついた)目。
 落ち窪んだ方の瞼が、そんな表情を助長する。

「…あんまり関わらない方がいいよ」
「だって、町の人でしょ。しんぱい、してるかも」
「んー…、それもそうなんだけど」
「じゃあ、目がさめるまであたしの家に寝かせとく?」
「いや、それは、更にちょっと」

 キカの片目とスマイルの両目が、しばらく合わさったまま無言で時間が流れる。
 …先に折れたのは、スマイルの方だった。

「……しょうがないね。じゃあちょっと町まで運んでくるよ」
「ん!じゃあ、あたしもついてく」
「キカは駄目。家で待ってて」
「えー?手をつないでたら、どこにだって行っていいんでしょー?」
「繋げないよ、ほら」

 スマイルは自分の着ていたコートをその辺に脱ぎ捨て、男の両脇から手を差し入れてやっとの事で背負った。
 男の濡れた服が、スマイルの背にびしゃりと張りついた。スマイルがコートの内側に着ていた服は比較的乾きやすそうだったから、男を送り届けた後もコートを着ずに行動をしていればその内乾くだろう。天気も良いし。

 よいしょ、と体勢を整える。
 そして男の体重を支える為に、両手は塞がってしまっていた。

「…むー。でも、森の中を歩くんでしょ。あたし、ついていくだけなら出来るよ」
「だーめ、今は非常事態。こんな事今までに早々なかったんじゃない?なら、手を繋がないと一緒に来ちゃ駄目。でも繋げないから、お留守番」
「……じゃ、家に帰る事も出来ないもん。手つないでないから」
「んー……。」
 珍しくキカが駄々をこねている。
 出来れば叶えてあげたい所なのだけれど…今回ばかりは無理だった。

「ごめんね、やっぱ駄目。すぐに帰ってくるから。家に帰れないのならここで待っててもいい。でも……」
「でも?」
「できれば家に居て、僕が帰ってきたら『おかえり』って言って欲しいな」
「…!」

 その言葉に、キカの表情は幾分か明るさを取り戻す。
 けれど家で待っていたら一緒には行けない、と彼女の心の中で両天秤にかかって。

 …そして、ここで言い合うよりもスマイルに『おかえり』を言う方が数倍幸せなのではないかと思った。

「じゃあ、待ってる」
「ん、いい子だね。家まで送っていこうか?」
「大丈夫!あたし強いもん!」
「……そっか」

 妖怪だから?とは、聞かなかった。
 彼女の心をやすりにかける、黒い言葉のようだったから。

「行ってくるね」
「うん!いってらっしゃい!!」
「―…行ってきます」

 行ってらっしゃい、に対するように言い直して、スマイルは森の中を歩きだした。

 ――歩きだす直前。背に居る男の目が、うっすらと開いて……けれどすぐに力を失ったように、閉じられた。






 −┼―――−- last promise _04 -−―――┼− 







 何より水を吸った服が重かった。
 地面にぼたぼたと水滴が垂れて、足跡のようだ。
 尤も、木の葉か土に吸い込まれてすぐに消えてしまうのだけれど。

「……んんんー、重い…」

 背負った体重と、それから含んだ水の重さ。
 いかにスマイルが妖怪といえど、透明人間という種族柄、筋力に特化しているわけでもなし。
 だからやっぱり意識の無い人間…しかもそこそこ背丈のある男を背負って歩くのは重いし、つらい。

 一歩一歩、体勢を崩さないように歩く。
 早く戻ると言ったのに、これでは少し遅れてしまいそうだった。

 それでも…キカの要望だから。
 懸命に、運んでゆく。
 途中で目を覚ましたりしないか、様子を窺いながら。

 どうして彼女の望みを叶えたいのか、それは考えてなどいなかった。





 そうして町が近付いた頃。
 ひょっとすると誰かが通るかもしれない、それくらい近くまで来て、スマイルは『姿を消した』。
 透明人間の名の通り、全身透明になったのである。

 頭から足の先まで透明になれば、まるで男だけが宙に浮いているかのようだった。
 そうやって姿を隠して、もう少しだけ歩く。

 人々のざわめきが聞こえる。
 それは町の通りを往来する人々の声。
 町が活気づいている証拠。

 けれどスマイルは町の中には入らず、木々に隠された場所に男を下ろす。
 丁度、日だまりのようになっていて温かい。

 これが、限界。

 直接運び込む事はやはり憚られたから、町の近々にあたるここまでで許して欲しかった。
 男が目覚めても迷いなく町へ戻る事が出来て、尚且つ夜までなら体が冷える事もない。
 そして、道から僅かに外れているから多少の事では見つかりもしない。…用心して、自分の姿は消して運んだけれど。
 キカの要望が無ければここまで運んでくる事も躊躇されたのだから、これでも僥倖だろう。

 一人納得して、スマイルはもう一度男を見る。

 何がどうなってあの川を流れていたのかは知らない。
 猟師のようには見えないし、どこからどう見ても普通の…強いて言うのなら青年だ。
 普通に接すれば何という事もない人なのだろうし、この男自体に害があるかと言われれば無いのかもしれない。

 それでも。

 キカの近くで目覚めれば、キカに対して何をするのか分からない。
 どんな言葉を吐くのか分からない。

「……人間同士、なのにねぇ」

 キカもこの男も種族は変わらない。
 そのはずなのに…どうしてキカの前でだけ危険分子になってしまうのだろうか。

 そんな風に思いながら、スマイルは小さく「ヒヒヒ」と残して、くるりと身を翻した。


 少し早足で、元来た道を戻ってゆく。
 キカから『おかえりなさい』を貰う為に。



 ***



「たっだいまー」
 扉を開けると、キカが首だけ振り向いて目を輝かせた。

「スマイル!…ちょっとまってね!」
 キカは手に持っていたものをもそもそと動かして、目立つ所にぷすりと針を刺す。
 どうやら布を縫っていたらしい。

 そしてそれを置いて、さほどない距離を全力で駆けてくる。

「おかえりなさーい!!」
 がばり。
 体当たりするように腰へ抱きついてきたキカを何とか受け止めて、「濡れちゃうよー?」と言いながらもぽんぽんと撫でる。
 スマイルの服は、男のせいで多少水を含んでいた。
 けれどそんな事は気にしないとばかりにキカの手はスマイルを放さず、ぐりぐりと頭を押し付ける。
 目が突出しているのだから擦れないだろうかとスマイルは一瞬斜め上の事を考えた。

「約束、守れたね」
「うん!!」
 尻尾があればバタバタと揺れているだろうその様子にスマイルもにーっと笑って返す。

「男の人、大丈夫だった?」
「ん。まだ目は覚ましてないけど、ちゃんと送り届けたよ」
「そっかー」
「キカは……裁縫してたの?」
「うん!!」

 ぱっと顔を上げ、頷く。
 軽い身のこなしで再び部屋の隅まで走り、先程まで縫っていたらしい布を持って戻ってきた。

「じゃーんっ!!」
 それは青い布。
 紙袋の一番上に入っていた、綺麗な空の色。
 …が、何か不思議な形に切り取られ、前に見たような千鳥足の縫い目で縫われている。

「今日は何を作ってたの?」
「うーんとね、服ー!」
「服?練習にしては難しいの作るんだねぇ」
「だって、こんな色の服だったら欲しいもんー!」
「へぇ」

 キカの服は、シンプルと片付けるにも首を傾げるくらいの至って単純な造りをした、白いワンピースだ。
 だから着る物に頓着しないのだろうと思っていたのだけれど、やはり女の子ということだろうか。

「あのね、あのねーぇ。スマイルの色なの!」
「……」
 虚を突かれたような気分だった。
 確かに自分の肌は、薄い青。空色と言ってもいいだろう。
 けれど……まさか自分の事がキカの思いの中に入っているとは。

「…そっか」
 ぽん、と彼女の頭に手を置く。それから、少しだけぎこちなさが抜けた撫で方で、ゆるりとキカの荒れた髪を撫でた。
 ヒヒヒ、と彼女は笑う。

「約束だもん。早く上手になって、いろんな人に認めてもらうんだー」
「ヒヒヒ。そうだねぇ」

 二人して間延びした会話をしながら、温かい気持ちになる。
 そしてスマイルは、わりと手先が器用な方だったから、何かアドバイスをあげられないかと未完成の青い布を見遣った。

「んー。服にするには、多分この辺をこう…した方がいいんだと思う」
「へぇぇぇ!うん、その方がいいね。スマイルってさいほうも出来るのー?」
 布の所々をつまんでいるスマイルに尋ねると、スマイルは少しだけ目を細めた。

「僕はちょっとだけ長く生きてるから。…キカより沢山、服を見てるのさー」
「ふーん」
 分かったのか分かっていないのか、ふんふんと頷くキカ。
 もう一度できるだけ優しく彼女の髪を撫でて、スマイルはテーブルに視線を投げた。
 そこには、川で脱ぎ捨てたはずのコートがあった。
 そういえば玄関前には釣竿と魚入りの籠と、水汲み用の深い容器が水入りで揃っていた。ひょっとしなくとも、何度か往復したのだろう。

「キカ、水は重くなかった?」
「んーん!あたし、いつも持ってきてたもん」
「…まぁ、それもそうなんだろうけど」
 スマイルが居なかった時には一人で生活していたのだから、尤もな事だった。
 それでも、今度行く時には自分が持ちたいと、そう思う。

「コート、ありがとね」
「ヒヒヒ!どういたしましてーっ」

 くるくるーっと回りだす彼女に、不思議な感情を覚える。

 ――今まで人間界を旅してきて、楽しい事や心が躍るような事は何度もあった。

 でもキカと話していると、いつまでも見守っていたくなるような…そんなふわふわした気分になる。
 撫でてやりなくなる。
 いくらでも、笑えそうだった。

 きっとそれは、気の置けない仲間に対するものなのだろうと―――何の迷いもなくそう思って、それから一拍の後に、少しだけ感情が冷める。

 キカと、妖怪の自分が、仲間。
 そんな事を思ってはいけない…気がした。
 特に、彼女にだけは。


「スマイル、どうしたの?」
「――ん、何でもない」

 スマイルの表情の変化に気付いたのか、キカが問う。
 けれどスマイルはすぐに元のように笑んで、誤魔化した。


 ――思ってはいけない。でも。
 楽しんではいけないということは、ないのだろう。

 そう、言い聞かせて。



 ***



 夜が更ける前。
 まだ日の明るさが残っている時刻。

 女は、家の扉が開かれて、振り返った。
 ――そんなはずはない、と言わんばかりに。


「……あぁ、酷い目に遭った」
 後頭部を押さえながら、男が家に入ってきた。
 水滴こそ落ちないが、湿った服を着て。

「おかえり…なさい。どうしたの?」
「どうしたも何も…よく分からねぇんだ。気付いたら森の入口に、びっしょり濡れて寝転がっててよ。頭も痛ぇ」
「……」

 男と女は夫婦ではなかった。
 夫婦の一歩手前、と言えばいいのか、一緒に住んでいる恋人同士。
 しかしそれなのに、説明のつかない距離感が、そこにはあった。

「…大丈夫なの?」
「話聞いて分かんねぇのかよ。気を失ってたんだぞ。痛みも一向におさまらねぇし」
「………そう」

 男は黒い上着を脱いで、乱雑にテーブルへ放った。
 水を吸った上着が湿った音を立ててテーブルに張り付いた。

「確か、いつも通り荷運びをしてたはずなんだ。そんで、……俺、どうしたんだっけか」
「済んだ事よりも、手当ての方が先じゃない?頭、痛いんでしょう」
 半ば遮る様にして、女が席を立つ。

 傷薬や包帯の入った箱を取り出そうと、棚に向かって歩いていく、その途中で。


「―――いや、そんな事より大変な事を思い出した」


 男が言ったのを聞いて、女はぴたりと止まる。
 ゆっくりと、振り返った。

「…何を思い出したの?」
「町の連中にも言わなきゃなんねぇ。……俺、見たんだ」

 女は黙って次の言葉を待つ。
 男は少し焦ったように言葉を繋いだ。


「森の妖怪が――― 一匹増えてやがった」


 予想外の言葉に女は固まったように絶句する。
 男は興奮したような口調で尚も言い募った。

「ぼんやりなんだけどよ、いっぺん森の中で目が覚めたんだ。その時、例の妖怪と……それから、でっけぇ青いのが居た。確かなんだ。すぐにまた気ぃ失ったからそれより後の事は思い出せねぇが……あんなの、妖怪でしかありえねぇ」
「…新しいのが、住み着いたって事?」
「そうとしか思えねぇだろ。人間と同じ形はしてたが、肌も、髪も青いんだ。後ろ姿みてぇだったけどな。…ありゃバケモンだ」
「―――…」

 大変な事になった、と男は言う。
 女はそれを聞くともなしに聞いて、何かを考えていた。

「でも変だな、見つかったにしちゃ俺は生きて帰ってこられた…」
「頭が痛いんでしょ、きっと仕留め損ねたのよ」
「…そうか、言われてみればそうだな」

 納得したように男は頷いて、神妙な面持ちになる。
 そしてそれを見ていた女は……一つ、提案をした。

「つらいでしょうけど、町にとって大変な事だし……その事、町長に伝えに行かない?」
「当然だ。言わねぇと大変な事になる」

 眉を寄せ青ざめる男をじっと見て、女は一つ、ゆっくりとまばたきをした。



 ***



「スマイルー、今日は沢山縫えたよー!」
 扉を勢いよく開いて外へ出てきたキカの、その手には…青い布。
 外で魚を焼いていたスマイルは振り返ってそれを見る。

 布二枚を合わせて単純に服の形に縫い合わせているだけだったけれど、それだけに形が出来てくるのも早い。

「今まで縫ってたのかい?暗いし目が悪くなるよー?」
「ヒヒヒ!気付いたら夜になってたー!」
「今度から気をつけなよ?」
「はーい!」

 声を張り上げながら、服の形を成してきたそれを持ってくるくる回る。
 スマイルは、それを見てふっと笑うのだった。



 町の住人の青ざめた顔も、動揺も、彼らはまだ知らない。





 ―続くよ―






**後書き**

ちょっと短いです今回。でも何かが動きだしました。(良い方向か悪い方向かは別として)
新しい登場人物が居る訳ですが、これといって名前とか考えてないです。
かといって重要人物じゃないかと言われるとそうでもないです(何なの

というかこの段階になってようやく終わりまでの構成が出来ました(脳内で)
構成書きとめると本編書きたくなくなってしまう病なのですよ!厄介ね!
さて、どこまで思った通りに書けるやら。

本当はこの時点で大分不穏な空気になってる予定だったのですが、予想外にスマが慎重に動いたので延期です。
キャラって勝手に動く時があって不便で難しくて、大好き。