この世界でと俺の関係を知ってるのは、六だけ。
男装の理由を聞かれたあの時に、それを正確に伝える為には話さざるを得なかったから。…男装の理由は、だし。
六に話したっきり、他の誰にも言ってない。
の父親は、火事の時俺を庇って亡くなったのだという事も。
父親の事で傷ついたがようやく見つけた最愛の男性は、途中から俺を好きになったって事も。
…父親どころか恋人まで奪われたという結果に、が俺を見限ったって事も。
『守られる存在だったから、お前が悪い』、『“女”として私の恋人に近付いたから、お前が悪い』。
そうに言われたから、俺が男として生き始めた、という事も。
知っているのは、六だけ。
けれど、全ての事を言ったように見えて、実はまだ言ってない所があるというのは、その六すら知らない事実。
食器を洗い終えたアッシュは、リビングに戻ってきて一つ溜息をついた。
そこに居るのは、ソファに座ってテレビを見ているスマイルと、その隣に座っているだけ。
は先程スマイルに誘われて一緒にテレビを見ているのだ。
…それは置いておくとして、問題はだった。
夕食を終えた現在も、は自室に篭ったままだった。
今まで多少体調が悪くとも『俺の仕事をアッシュにさせるわけにはいかないから!』と必ず家事をしに来ていたのだが、今回は余程具合が悪いのだろうか。
体温計と一緒に昼食を運んだ時も、夕食を運んだ時も、随分顔色が悪いようだった。
食事はどちらも半分程しか食べていなかった。しかし熱は無い。
『歪み』の関係で体調を崩しているだけならいいのだが。
(…それにしても、)
一日の家事を全て自分だけでこなしたのは、久しぶりだった。
が来てからは自分の負担が半分程度に軽減されていたので、その量に少しばかり疲れを感じる。
そこまで考えて、そういえばは数日後には帰るのだと思い起こす。
もうそろそろ今日のような日々が戻ってくるのだ。
自分一人で家事をこなすペースを取り戻さなければ。
「………」
もう一度、溜息を零す。
急に、この家事の量に寂しさを感じた。
数日後にはこれが減る事もなくなる。
…誰かに家事を手伝ってもらう事。
それが当然となるには短かく、習慣と化すには充分すぎる長さだった。
人間だというのにこの城の住人にあっという間に馴染んで、それどころか記憶の中に色濃く存在を残した。
現れるのも突然なら、去るのも突然。
去る事を告げられて初めて、を家族のように思っていた事に気付いた。
これだけ親しくなっておいて唐突に去るなんて、卑怯だ。
…そんな、理不尽じみた思いが滲むほど、寂しかった。
(でも、には帰るべき場所があるっス。家族も友達も居るっス)
長い事こちらに居た事の方がおかしいのだ。
そう思って、諦める他なかった。
まるで、満たされた時間が突然ぷつりと途切れて、それが自分の見ていた夢だと気付かされた時のような……そんな些細な心の隙間風を感じながら。
ユーリは、自室に再び増え始めた本棚を見上げていた。
この部屋もそろそろ本で埋まり始めている。
他の部屋は、本で埋まっている所をが整頓してくれた。
この部屋もじきにに頼む事になるだろうか。
………否。
は数日後に居なくなるのだ。
となると、この部屋はこれまでのように本に埋まったまま放置されるに違いない。
しかし寧ろそれは普通の出来事だったのだから、部屋が本で埋まる事は別段気にかからない。
それよりも、今までの『普通』を色々と変化させていったに今更ながら驚いていた。
何年も本で埋まったままだった部屋を整頓して、
育てている花の水遣りを任せればうっかり忘れてしおれかけさせ、
城に大人数を呼んで大騒ぎをして。
今までの日常を覆して回るような数ヶ月だった。
長命の種族として、これは生きている中でたった一瞬の事だろうが、それでも鮮烈だった。
それを思って、ふとユーリは口の端に笑みを浮かべる。
あぁ、なんだ。
が居た時間は、楽しかったのか。
勿論それまでが楽しくなかったわけではない。
バンドもやっているのだし、メンバーだって悪くない。
けれどは、更にその日常にプラスアルファを与えていったのだ。
「ずっとここに居る事って、出来ないのー?」
不意にスマイルがに言っていた言葉が浮かぶ。
…何となく、それを言う気持ちが分からないでもなかった。
しかし元の世界に帰る方法をMZDに探させていたのは他でもないだ。
ならば、帰りたいのだろう。
寧ろ今までこちらの世界に居た事がにとって不本意だったのだから、帰る事は当然だ。
……寂寥とも諦めともつかない感情が混ざって、本棚から本を取る手が妙にゆっくりになってしまった。
***
「もう寝るっスよー」
告げれば、スマイルは「はーい」とテレビの前から立ち上がった。
時刻は11時。
全員が風呂に入って、随分経つ。
…だけは、やはり部屋に篭ったまま風呂にも入らなかったが。
スマイルの隣に座っていたも立ち上がって、アッシュとスマイルに「おやすみなさい」と軽く頭を下げた。
アッシュが「そんなに畏まらなくていいっスよ」と慌てて言ったが、はにこりと微笑んで「居候の身ですから」と返した。
とても丁寧な物言いだった。
部屋の位置をまだ把握しきれていないは、隣の部屋の住人であるスマイルが送り届ける事にして、3人ともリビングの出口へ向かう。
アッシュは二人がリビングから出るのを確認して、電気をぱちりと消していった。
***
………。
ふっと、目が覚めた。
部屋に篭ってベッドに寝転がってから、数時間寝ては目覚め、数時間寝ては目覚めを繰り返している。
が居るという恐怖を忘れたくて寝るけど、睡眠が浅くて短時間で起きてしまう。
朝にが来て、それから部屋に篭って、もう真っ暗になった。
数時間ごとに起きてるから時間感覚が狂いそうだけど、月明かりで時計を見たら今は夜中の2時だ。
あぁ、と重い溜息をつく。
内臓が圧されそうな程重い息だった。
家事の手伝いは絶対にやるって決めてたのに、今日はが怖くて部屋の外に出られなかった。
多分皆に心配も迷惑もかけてる。それは分かってる。
それでも、駄目だった。
部屋の外にが待ち構えているような錯覚さえ起こして、数時間の睡眠の中に見る短い夢さえ、焦燥感でいっぱいだった。
目覚めた瞬間、毎回視界が揺れるほど心臓が大きな音を立てていた。
今日はスマイルが何度か来て話し相手になってくれたし、アッシュも食事を運ぶごとに優しく声かけてくれたから幾分ましだったけど、体中を覆う恐怖は晴れない。
元の世界に帰るまで、ずっとこんな風なのだろうか。
…そんな事、考えたくもなかった。
けれど逃げるようにこの部屋に篭ってしまった事が妙にいけない事のような気がして、罪悪感を感じる。
…逃げるように、じゃない。
逃げたんだ。
それで他人の迷惑も顧みず、一日中ずっと引きこもった。
自分の感情だけで。
この分だと明日も出られない気がする。
それはいけない。それではいけない。
仮病を使って看病を受けているのと同じだ。
少しでも部屋の外に出なければ。
怖い怖いという思いが固定観念になって更に怖くなってしまう。二度と出られなくなってしまう。
それなら、今はどうだろう。
夜中の2時だ、流石に誰も起きていないだろう。……も。
この状況なら部屋の外に出ても大丈夫なんじゃないだろうか。
部屋の外に出ることへの恐怖を拭う為に。気分転換の為に。
城の中を簡単に散歩しよう。
…しかしそういえば、がどの部屋で寝ているのか分からない。
アッシュ達の事だからきちんと部屋を割り当てたには違いないけど、それがどこなのかが分からない。
俺が使っているこの部屋は、3階にある。しかも階段のすぐ近くだから誰かが階段を上ってくれば(これだけ静かにしていれば)分かる。
…寝ている間に上ってきていたら、話は別だけども。
とりあえず物音はしなかったから、この階じゃないのかもしれない。
少なくとも近くの部屋じゃない。人が居れば何らかの音がするものだけど、それが全くないし。
もしかしたらDeuilの誰かの部屋と近い場所にしたのかもしれない。迷わなくて済むし。
スマとアッシュは1階、ユーリは2階。もしもDeuilの近くに居るなら俺の居る3階には来てないだろうな。
…分からないけど。
ベッドから降りて、月明かりに照らされている部屋を素足で歩く。
スリッパは…何となく置いて行きたかった。
正直、スリッパを履いて廊下を歩いて、足音を立てるのが怖かった。…に、見つかる気がして。
これだけ月明かりが綺麗なら、階段の踊り場にある大窓から月を見るのもいいかもしれない。
よし、今回の散歩の目的はそれに決定だ。
音を立てないようにドアを開けて、滑るように部屋の外に出てからそっと閉める。
月が出ている方とは反対側に窓がついているのに、月が明るすぎるせいで窓からは薄い薄い光が差し込んでいた。
廊下が月明かりでほんの僅か照らされる。
長い廊下に誰も居ないかを視線と音で確かめてから、足音を立てないようにゆっくりと歩き出す。
階下へ繋がる階段に向かって。
しんしんと、静けさが音になっているような感覚。
自分が素足で歩く音すら聞こえてきて、まるで未知の場所を歩いているようだった。
すぐに階段が見えてきて、そろりと足で階段のある場所を確かめて、ゆっくり降りてゆく。
暗くて良く見えない。けれどなぜだか暗さによる恐怖は無い。
階段を降りて、2階と3階の間の踊り場に辿り着く。
そこには見上げるほどの大きな窓があって、窓越しに少し欠けた月の全貌が良く見えた。
明るすぎて眩しいくらいだった。
月で自分の影が出来るなんて。
立ったままぼんやりと窓の外を見て、軽そうな雲が流れるのを眺める。
そうしながら、俺は今日あった出来事を思い出していた。
…と会った事も重大な出来事だけど、元の世界に帰れると知った事も重大な出来事だった。
俺はこの世界に来た直後、帰れないと知って反射的に「帰る方法を探さなければ」と思った。
それは、迷子になった子供が「早く親を探さなければ」と思うのと同じような、咄嗟に思うような事だった。
迷子の子供が、親を探す事を当然だと思って一心不乱になるように、俺もただただ当然のように帰る方法を望んだ。
――けど、実際はどうなのだろうか。
本当に『帰りたい』から帰ろうとしているのだろうか。
親に会いたいのだろうか。見慣れた土地を見たいのだろうか。
そうでないと言えば嘘になるというのに、そうだとも言えない。
確かに親に会いたいのに、確かに見慣れた学校や町を見たいのに、けれど心の底からその場所に帰りたいと思えない。
どうしてそうなってしまったのかは、良く分からない。
元の世界には愛着もあるし、帰りたくないわけじゃない。
それなのに、なぜ?
そういえば郷愁を強く感じた事はなかった。
自分はそんなに薄情だったのだろうか?
こっちの世界が楽しいから?
…それだけじゃない、気がする。
………違う。
疑問に思うことじゃない。
答えは分かっているけれど、今朝その答えを自覚するのが怖くて蓋をして、その蓋がまだ外れないんだ。
しばらく黙って床を見詰める。
………そして。
―――たん、たん、たん。
ふいに、階段を上ってくる音がした。
反射的に目を見開いて、硬直する。
体が動かない。誰かが起きてる。近付いてくる。階段を上ってくる。
誰。 誰、誰、誰だ。
逃げたい気持ちで一杯なのに、背中から聞こえてくる足音の主が誰なのかという事で頭が埋め尽くされて体がいう事を聞かない。
階段に背を向けているから振り返らなければ足音の主を見ることすら叶わない。
徐々に近付いてくる。
…落ち着け。ここまで上がってくるという事は、俺の様子を見に来たアッシュかもしれない。
いや、待て。もっと落ち着け。いくらなんでも夜中の2時に様子を見には来ない。
なら誰だ。誰だ。誰……、
すぐ近くまで足音が近付いて、俺は震えながらゆっくりと後ろを振り返った。
「随分遅い時間まで起きてるのね」
どくん。
一度大きく鳴り響いた心臓が、血を送り出しすぎて視界を一瞬霞ませた。
月明かりに煌々と照らされた人物。
ワンピースを着たままの彼女は、階段を上りきって俺と同じ場所に立った。
階段を上ってきたのは、だった。
俺は体を後ろに捻ったまま、動けなくなった。
頭から血の気が引いたせいか、指先が細かく震えて、思うようにならない。
何を言われたのか全く分からなくて、ただに話しかけられたのだという事実が俺の体の動きを拘束する。
「眠れなくて部屋を抜け出したんだけど、あなた何をしてるの?」
「お、れ、俺は、俺は…」
何か言わなければ。
何か。何か。何かを。
何を?
返答を。
何を問われた?
分からない。何て言えばいい?
何か言えば全て否定されそうで怖かった。まるで詰問されているようだった。
そうして答えられないでいると、は俺が返答をしない内に眉を寄せた。
「……『俺』、ね」
が俺の正面まで回りこんで、俺はただそれを首ごと視線を移動させて追うしかできなかった。
と俺は、正面から向き合った。視線がかち合う。
「そうやってまだ『私は反省してます』って見せ付けたいの?『私が女である事自体がを苦しめるなら男を演じる』って、あの時あなた言ったわよね。まだしぶとく実行してるなんて、そうまでしてまだ私に許されたいの?馬鹿馬鹿しい」
さっきまでは全く言葉の理解を受け付けなかった思考が、鮮烈にの一言一言を刻み込んでゆく。
馬鹿馬鹿しくなんか、ない。
俺はに許されたいわけじゃなくて、許されるなんて思ってなくて、でも大好きな親友であるに憎まれる事が、狂いそうなくらい恐ろしくて、だから自分の性別なんて投げ出してもいいと思ったんだ。
性別なんて、『女』なんていらないから、に憎まれたくだけはなかったんだ。
に会わなくなったからって途中で男装をやめるのは、俺の罪を全て無かった事にして忘れてしまおうとする行為のような気がして、やめられなかった。
今となっては男装する事が習慣となって、当然となって、男装していなければならない気がしてくるほどで。
…あぁ、これが言葉に出来たらいいのに。
唇が上手く動かない。言葉にまとめようとした瞬間に何から言っていいのか分からなくなる。
「…許してくれる時を待ってるっていうの?また会えるかどうかすら分からないけど私は待ってます、って、悲劇のヒロインのつもり?『女という性別を失ったのはお前のせいだ』とでも言いたいの!?ねえ!!」
「ち、が…っ、違、」
「何が違うの!責められて動揺してるくせにっ」
射抜くような視線を向けてくるに、俺は殆ど何も言えずにいた。
始終頭の中を重いもので殴られているようで、混乱の度を越していた。
ただ分かるのは、の言っている事と俺の思いは食い違っているという事だけ。
違う、違う、でも否定の言葉が紡げない。
一つも思い通りにならない現状に、俺は大声を上げてうずくまりたくなった。
「それとも、何?男装して周りが騙されてくれる事に味を占めた?楽しいでしょうね、嘘に騙される人を見るのは。この城の住人は皆騙されてるみたいだし」
「…!」
びくり、と肩を震わせる。
だってそれは、違うと否定できない。
少しでも楽しいと思った。
「図星なの?じゃあ、いまだに男装してるのは私がどうのっていうんじゃなくて、自分が楽しいからなのね。昔の事なんて全部忘れて、無かった事にして遊びたかった?」
月明かりが逆光になって彼女の表情を暗くするが、それでもはっきりと分かるくらいに彼女は怒りの形相を浮かべていた。
息が上がる。溜まった涙が堪えきれずにぼろりと一粒落ちた。
過呼吸にでもなったように頭がくらくらして、を真っ直ぐ見られなかった。
否定の言葉が思い浮かばない。何も言えない。何も考えられない。
「…あんたの事は許せない。けど全部忘れようとするのはもっと許せない。私がどれ程苦しんだと思ってるの!?私は大切な人を二人も失ったっ!抜け出せない地獄みたいな日々を、あんたは何も知らないんでしょうね。自分の事じゃないからって笑って忘れようとするなんて許せない。一生許してやらない。…あんたなんて、」
が一歩前に出た。
俺は一歩後ずさった。
がまた一歩前に出て、俺はその分だけ後ろに下がった。
「あんたなんて、やっぱりあの時殺してればよかった」
瞬間、感じたのは激しい戦慄。
俺はそれまでじりじりと下がっていたが、突然その場に居てはならない気がして、数秒の間の後ぱっと踵を返して手近にあった階段を素早く降り始めた。
近くにあるのが上りの階段なら真っ直ぐ部屋に帰れたのに、不幸な事に下りの方が近かった。
しかし暗くて階段が良く見えない。
思ったように降りられなくて、焦って、更に足の運びが遅くなる。
逃げなければ。早く、早く。
――瞬間、背後からが迫ってくる気配がして、
どん
背中に衝撃を受けた。
震えてもつれていた足はぐらりと傾く。
手摺りを持っていなかった体は空中に投げ出される。
首だけで振り返れば、そこには無表情のがいた。
たった今何があったのか、一瞬だけ考えて………
に背を押されて階段から落ちているのだと、理解する。
ああ、もう、終わるのか。
俺は怖くて苦しくて悲しくて、ぎゅっと目を閉じた。
〜To be continued〜
<アトガキ。>
思い通りに進んでますポップン連載。大変な事になってます…。
サブタイトルは…まぁ、最後のシーンを言っているのですが。
Deuilは一応夢主との別れを惜しんでいるのです。
が、やっぱり引き止めるわけにはいかない、と。
(ちなみにスマだけその心情を明かしてませんが、それは後々…)
遂にかち合った二人は、やはり平行線のままでした。夢主にとって一番恐れていた事が起きたんです。
夢主は昔の出来事を忘れようとしていたわけじゃない。けれど、無意識の内に幸せは求めていた。
…それは、人間ですから。
でも友人は今となっては夢主の何をも許す事ができない。…彼女も色々思う所があるようです。
さて次回はちょっと唐突ですが夢主と友人の過去話です。
夢主が現在落下途中なので、走馬灯っぽいものなのかも。(ええぇ!!)
二人の間に何があったのか、明かされていない部分が明らかになります。
お楽しみに。
…それにしても超短期間で仕上げましたね…。
某オフ友のせいです。畜生。有言実行したぞ満足か(私信!?
2007.4.8