真夜中の寝室。
 眠ろうと閉じていた目を開いて、半身を起こした。
 その拍子に薄い掛け布団がはらりとめくれる。

 私は外で重低音を響かせながら降り続く土砂降りの雨を窓越しに見た。
 暗闇に目が慣れて、雨の影が上から下へ落ちて行く様子が窺える。
 …否、落ちて行く様子、というよりは既に太い線が天から幾つも伸びているだけのようだった。

 部屋は静かだというのに、屋根や窓を叩き壊すかの如き激しい雨に全ての静寂が掻き消される。
 時折ほんの僅か光が差し込んで、雷が落ちていることを示す。

 壁にかけられた時計を見た。
 ……針は、暗くて見えなかった。
 けれど恐らく3時は過ぎている。

 あぁ、また、今日もか……。

 音を乗せずにため息を零し、ちらりと右を見る。
 そこには隣の布団で眠る私の恋人が居た。

 手を伸ばしかけて、やめる。
 どうしようもない孤独感に苛まれながら、それでもその為に彼を起こしてしまう事は憚られて。


 ―――あぁ、あ。
 私は今日も、体温を求め損ねた。





052 : 体温





、お前最近、妙に疲れてないか?」

 私が作った朝食を一緒に食べながら、彼…六は静かに尋ねた。
 丁度先週、旅からこの家に帰ってきた彼は、これからしばらくは彼の自宅であるここを離れないという。
 だから彼に任された“六の留守中この家を守る役目”も、今の所は休みを与えられている。

「そんな事ないわよ?」
「………」

 小さな座卓を挟んで向かい合うように座っている六は、私の否定に何も返さず食事を再開させた。
 私もそれに倣って焼き鮭の身を解して食べる。
 …少し塩が多かったかもしれない。

 それから私達は黙ったまま食事を終えた。
 六は元々口数が少ない方なので、わりといつもこんなものだ。


 食器を片付けようとお盆に茶碗や皿を載せていると、それまで黙ったままだった六が不意に右手の湯飲みを見つめながら言った。

「…散歩にでも行くか?」
「……突然ね?」
「そうだな」

 外は曇り。
 夜に大雨が降ったので昼間は降らないだろうが、好んで散歩に出るような天気ではない。
 六は外が好きではあるし、梅雨のこの時期でも外に出たいのだろうか。

「どこか行きたい所があるの?」
「いいや」

 行き先はお前が決めろ、と。
 そう呟いた六に、私はようやく納得がいく。

「…歩きながら決めましょう」
「ああ」

 不器用な彼が、私をそっと気遣っている事に。


「食器、すぐに片すから待ってて」

 お盆を持って台所に入っていく私を、彼が横目に見ていたのに、私は気付いていた。


“でも、
私が疲れているのは、貴方が帰ってきてからずっと家事に追われてるせいじゃないのよ。”

 ――そんな事、貴方の気遣いが嬉しすぎて、言えやしない。




 ***



 夜。
 布団を並べて、明かりを消す。
 どちらが先に寝るという事も無い。寝るときは二人同じ時間に、だ。

 私は瞼を閉じて、眠ろうと試みた。
 昨日、一昨日、その前の夜と同じように。

 …けれど眠気は訪れない。
 昨日、一昨日、その前の夜と同じように。

 瞼を閉じたまま、じっとするだけの時間が流れてゆく。

 外からは土砂降りの大雨が屋根や窓を叩く、重い重い音。
 ここ連日、家を殴り潰すような豪雨が真夜中にだけ降り続いている。
 台風よりも酷いかもしれない。

 その音がうるさくて、ではないけれど、私はこの大雨が降り始めたその日の夜から眠れずにいる。
 六が眠るまでは、私も眠ったふりをしているのだけど。

 少し時間が経って、目を開く。
 この暗がりの中では、隣で寝ている彼に私が目を開いているかどうかなど分からないだろう。
 目を閉じるのは明かりを消して少し経った頃…様子を探られる可能性がなくなるまででいい。

 横になったまま、視線を彷徨わせる。
 天井すら闇に染まったその部屋で、見えるのは仄かに明るい窓際だけ。


 目を開かなければ、家ごと押し潰してしまいそうな雨音に狂ってしまいそうだった。


 じっと、ただ天井を見ている時間がだらだら続く。
 もう何時間経っただろうか。
 隣で横になっている六は、身じろぎすらしない。もう眠ってしまったのだろう。

 私は音をたてずに首の向きを変え、六が完全に眠っているのを確認すると、ゆっくり半身を起こした。
 薄い掛け布団がはらりとめくれ落ちる。

 そうしてここ数日ずっとしているように、窓越しに外を眺めた。
 まだ、雨が止む気配は無い。それどころか雨脚は弱まりすらしない。

 私はこの雨が、雨の音が怖くて眠れないでいた。
 いつもなら夜中の大雨はその低音を心地よく感じていたのに、ここ数日の大雨はなぜかとても怖く感じる。
 唐突に、理由も分からず、恐怖として私の心に植わってしまった。

 眠ろうと目を閉じれば押し潰されそうな程の重い音が夜の静けさの中に響き渡って、まるで自分が飲み込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
 窒息してしまいそうで、狂ってしまいそうで、目を開けば閉じられなくなる。
 いつもならそんな事は無いのに。

 そんな調子で目を閉じられずに過ごしていたら、いつの間にか睡眠をとらないまま数日が過ぎてしまった。
 体は眠いと感じているはずなのに、意識がそれを許してはくれない。

 そして目を開けていれば恐怖は拭われるが、今度は静かな部屋で意識を持っているのが自分だけだと改めて実感してしまいどうしようもない孤独感に晒される。
 雨音に被さるように微かに聞こえる六の寝息。自分だけ起きていて、浮き彫りにされる寂しさ。たった一人取り残されたような虚無感。

 だって、事実私はつい先週まで一人でこの広い広い家に残されていたのだから。
 隣の存在を時折信じられなくなってしまう。

 雨音と暗闇に閉鎖されたこの空間で、自分の存在を証明する何かが欲しくて、そうでないと全てが掻き消されてしまいそうで自分の存在すら危うく感じられて、酷く焦って。
 そんな時隣に居るこの人の体温に触れられれば安心できる気がしたのだけれど、それでは彼が起きてしまう気がして出来なくて。

 あぁ、だってこの人は体を休める為に寝ているのだもの。
 それを私が不安だからといって起こしてしまうのはあまりに理不尽。
 仮に起こしてしまって『どうした?』と聞かれれば、答えるにしてもその理由が『雨が怖くて』だなんて随分些細且つ身勝手で答えられるはずも無い。

 どうしようもない。
 そう結論付ければ……やはり私は今日も体温を求め損ねた。

 今日もこの重低音と闇の中、孤独に消えてしまいそうになりながら朝を待つのかと、身を切るようにつらい諦めを抱く。
 ―――すると。


「眠れないのか」


 ぽつり。
 横になったままの六が、寝ているはずの彼が、呟いた。

 私はなるべく驚きを気配に出さないようにして、「ごめんなさい」と謝った。
「起こしてしまったのね。…雨音が酷いから目が覚めただけよ、すぐに寝るわ」
 心臓が縮み上がりそうなほど驚いた事を悟られない内に、私はそそくさと掛け布団を元のように体にかけて横になった。

 しかし彼は尚も言葉を続ける。

「今の今まで起きてたお前が何を言ってる」

 ―――…。
 私は二の句を継げなかった。

 私が起きていた事を知っている。
 いいえそれより驚くべき事は、今の言葉から察するに彼がずっと起きていたということ。

「昨日もそうだったのか?」
 そう問われて、どう答えようかと焦っていると、彼は体を起こしてこちらへ顔を向けた。
 暗いので表情は見えないけれど。

 自分の所為で彼から睡眠を奪ってしまって、罪悪感しか湧かない。
 こんな時間まで何をしているのだ、と怒られているのだろう、これは。
 余計な心配をかけてしまって申し訳ない。
 もう、雨音が怖くても寝なければ。死にそうに怖くても、寝なければ。

「私は大丈夫だから、寝ましょう。こんな時間まで付き合わせてごめんなさい」
「それは肯定と取ってもいいんだな」
「……」

 静かに言われてしまえば、否定が出来ない。
 そして六には悪いけれど、心の隅で『六が起きて嬉しい』と思っている事も確かだった。

「…どうして、起きてるって分かったの?」
 起き上がったのは、ついさっきだというのに。
「……知りたいか?」
「…?」

 見下ろしてくる彼の顔(だと思われる部分)をじっと見詰めれば、彼は一呼吸置いてから思いもよらない事を言った。

「寝返りをうたなかっただろう」
「寝、返り…」
「いつもなら眠った直後から寝返りをうつお前がぴったり止まっていた。…意識があるとしか思えない」
「………」

 盲点だった。
 動かずに寝たふりをしているのが拙かっただなんて。

「今日意識して窺うまで気付かなかったが、まさか寝ていなかったとはな。……一体どうした」
「何でも…ない」
「…何でもないように装うなら、昼間にあんな疲れた顔をしないことだな」
「………」
「言ってみろ」

 窓の外が光って、ゴロゴロ、と遠くから雷鳴が響いた。
 一瞬だけ照らされた室内に、六の顔の輪郭だけが目に焼きついて。
 その突き放すような言葉が、いつもより幾分柔らかだったのに私は気付いていた。

 …雷鳴の後には、今までより更に強い雨音。

「……が、……ったの…」
「…聞こえない」
「雨音が…」
「雨音が?」

「雨音が…!怖かったの…!」


 …こんな泣き言を言った所で、雷を怖がる子供じゃあるまいし、と呆れられるのが関の山。
 そう思って言い訳じみた何かを継ぎ足そうとした……が。

「どうして俺を起こさなかった」
 すい、と立ち上がって私の布団に腰を下ろし、六はその指で私の髪を梳いた。

 耳を塞いで寝ればいいだろう、だとか、そういう言葉ではなく。
 なぜ、自分を頼らなかったのか、と。


「私、夜の大雨は好きよ」
「知ってる」
「静かに響く水の音が安心するの」
「知ってる」
「…それが突然、怖くなったの」
「……」

 六と目線を合わせるように、私も身を起こして座る。
 暗いけれど、六がちゃんと隣に居るのが分かる。

「たったそれだけ。そんな事の為に…六を起こすなんて、出来ない」

 言い切れば、六は大きく溜息をついた。

「…全く眠れない事を『たったそれだけ』とは言わん」
「でも本当に些細な事だから…」
「何の為にお前にアパートを引き払わせてまでここに住まわせたと思ってる」
「………それは、留守番の為でしょう?どうしてここでその話題が出るの?」
「……。…いいか、一度しか言わないからな」



 俺が居る時くらい、お前にそんな顔をさせないように、だ



 そう言った彼の低い声が、数秒、私の息を止めさせた。
 六がこんなにはっきりと自分の気持ちを伝えてくれる事は、今まで全くと言っていいほど無かったからだ。

「家を空ける時間の長い俺じゃ説得力が無いか?」
 そっと私の頬を撫でる六の手に擦り寄りながら、私は「いいえ」と何度も返した。
 …あぁ、涙が限界量を越えて零れ落ちそうだ。

 孤独感が、恐怖が、不安が、全て溶けきって安堵に変わる。
 六は責めているんじゃない、心配してくれているのだ。

 私が求めていた体温は、今ここに。


「…ねぇ六、今日は一緒の布団で寝ない?」
「……」
「そうしたら、眠れる気がするの」
「………」

 私が布団の端に寄って場所を空けると、六は小さく溜息をついてからそこへ入ってきた。
 二人が同じ布団に入って掛け布団をかけると、狭く感じたけれど、私にはそれが幸せだった。

 六の手をそっと両手で包んで引き寄せて、その温度を確かめる。
 すると六は「みみっちいな」とでも言わんばかりに大きな体で私の体を包み込んだ。
 初夏にも入りきらない梅雨だから、暑くはない。

 ごうごうと響く雨音は、もう怖くはなかった。
 六の体温が私を守ってくれるから。

 それから時間の経過を感じる事無く、私は自然に眠りの奥底へ沈んでいった。


 ***


「六、後から一緒に買い物に行きましょう?」
「あぁ」

 翌日、朝食を終えて食器を片付けながら、六を買い物に誘った。
 正直一日分の睡眠(しかも寝たのは夜中)では足りなかったけれど、随分元気が出た。
 昨日より体が幾分か軽い。

「……晴れたな」
 六の呟きにつられるようにして窓の外を見ると、雲が残ってはいるものの青い空が見え隠れしていた。
「歩いて行くから、丁度いいわ」
 笑って返してお盆を持ち上げる。



「……」
 が台所へ消えていった後で、六は考え込む。
 さて、どうしたものか、と。

 昨夜はにこの家に住まわせている理由をああ言ったが、実はもう一つある、という事をどう告げるべきか。
 口下手な自分が早々告げられる事ではないだけに、昨日の出来事も絶好の機会だったはずなのだが。


から学生という肩書きが外れたら、すぐにでもこの家の永住権を与えたいから”


 …少なくとも今年か来年中には言いたいものである。
 その為に帰ってきた、のだから。

 しかしこの分では少し難しいかもしれない。
 思わずもう一つ、溜息が零れた。

 そんな平和な日曜日。







 結局六がそれを伝えられたのは、その年の最後辺りだったとか、そうでないとか。





〜Fin〜




<アトガキ。>

ぅぐはあぁっ!!これどの部類だ!?甘か?シリアスか?微妙だ…!
ともあれ完成してよかったです。最近唐突にネタが思いついて無理矢理お題に連結させました。
突然物凄く書きたくなったんです。レポートサボって書きました(オイコラ)

普段は怖くないものがなぜか急に怖くなってしまう事ってないですか?
そして頼る人が誰も居なくて寂しかったり。

連載の六はもう少し多弁ですが、このくらい漢な感じでもいいかなとか思ってます。てやんでい(何)
背中で語る振りして実は口下手とか萌えじゃありませんか?てやんでい(だから何)
この話の中でヒロインさんが学生なのに朝食作ったり散歩したりする時間的余裕があるのは土日だからです。
浪人でもよかったですが、それだと六にプロポーズさせる機会と節目が無いので。

そしてなるべく横文字(カタカナ単語)を入れないように調整するのが難しかったです。
「チャンス」=「機会」、「タオルケット」=「掛け布団」
こんな感じで、気付く限り変換して回りました。和風万歳。

それにしても今回の六のイメージが意外な事に某死神漫画の小さい隊長と重なったんですよね。
あの人は口下手ではありませんが。

…ってな事で、書くべきものを書かずにお題に走ってすいません; 書きたいものを書けたので満足です(をい)
では、またどこかの作品で。

2007.7.5